天地の狭間、三つのいのち

 周軍が、にわかに騒がしくなった。貝の蓋のように固く閉ざされたままであるはずの城門が開き、そこからいきなり申の戦車隊が車輪を唸らせて飛び出してきたのだから、無理もない。

 さらに歩兵、弓兵と続くが、弓兵は手にしたものを天高く構えて引き絞るような様子はない。


「一撃せよ」

 盂炎は、全軍の先頭、自ら乗り込む戦車の上、鋭くそう叫んだ。

 敵陣を、一撃する。場所は、中央。そこに、周軍の核たる楊戩と哪吒、姫発がいる。一度でそれらを打ち砕くことができる自信があった。

 周軍は、自慢の騎馬隊を持っていても、まさかこの機に盂炎が突撃をかけてくると思っていなかったらしく、まだ騎乗の構えすら見せていない。戦車の車輪が鳴れば鳴るほど、大声で兵になにか指示をする者どもの姿が近づいてくる。

 楊戩か、哪吒か。あるいは姫発か。まだ、それが誰なのかまでは分からない。しかし、誰でもいい。

「一撃せよ」

 また、叫んでいた。それで、勝つ。手に握る大槍で、串刺しにしてやる。あとは、後ろに続く五十もの戦車が、陣を粉微塵に打ち砕く。左右に分かれて離脱し、旋回し、二撃目を叩き込む構えを見せる。残っている周軍がそれに応じようと左右に向かって構えようとするとき、正面の天から無数の矢が降り注いでくるのだ。


 相変わらず、周軍はこの申の南で畑などしているらしい。戦場の土を耕し軍糧を得るという着想は目から鱗でも、それは長期に渡って滞陣するのでなければ意味を持たない。

 今日、彼らは屍をこの申の野に晒すのだ。彼らが汗を流して耕作を進めていたであろう南側の原野を左手に流しながら、戦車の激しい揺れに体を立てる。

 周軍は、騎乗を終えた。さすがの手際である。おそらく、自分達と同じように、死すれすれの調練を潜ってきているのだろう。

 しかし、戦車もそうであるが、馬とはいきなり速くは駆けられない。まず並足、続いて駆け足、そして疾駆と、その速力が発揮されるようになるまで、少なくとも一里(四百メートル弱)は必要になる。

 敵陣まで、もう半里もない。戦車を曳く馬たちは涎を飛ばし、いっそう速く駆けている。

 駆けぬ馬なら、豚と同じである。それに跨ったところで、どうなるわけでもない。自分たちが新たに発見した騎馬隊という新兵器を、彼らは頼りすぎている。


 これが、戦い。彼らとは、越えてきた生も見てきた死も、その数が違うのだ。

 あと、四半里。そこで、周軍の動きが変わった。ぱっと騎馬隊が向きを変え、西に向かって動き始めた。馬とは、集団で駆ける。指揮をする者の馬が西を目指したことで、ほかの馬もそれに倣ったのだろう。西ならば、退却か。しかし、ほかの歩兵や輜重などを捨て置いて、騎馬だけで遁げてどうする。

 一瞬、盂炎の眉が曇った。その下の瞳に、二騎だけがこちらを向いて残っているのが映る。

 ひとつは、槍。ひとつは、長剣。間違いなく、哪吒と楊戩であろう。とすれば、西を目指したのは姫発か。周公となるであろう姫発と、主力である騎馬隊を守るため、西に逃したものと見えた。


 だが、すでに戦車隊は最高速で、背を見せる騎馬隊を追う構えを取っている。

 まず、眼前の二騎を踏み潰す。そう、馭者に指示をした。もう一人同じ戦車に乗り込んでいる手練れの兵が、弓の弦を鳴らす。

 放たれた矢は二騎のうち哪吒らしき者を目指したが、その手にする槍によって払われた。二の矢は楊戩を狙ったが、その軌道を読み切っているのか、楊戩は微動だにすることなく兜の脇を通り過ぎてゆく矢をその意のままにさせた。


 そうだった、と盂炎は笑った。無意識に笑っていた。彼らもまた、誰も知り得ぬ場所にいる。武の極み、戦いの頂。そう、盂族の古い言葉にあるような未知の領域に。

 同じなのだ。

 この戦場では、自分も、彼らも。そのままの輝きで放り出された、ただ一個の命。それをぶつけ合い、より強い方が残る。

 馬とは、まっすぐ駆けるだけではない。その駆り手の意思を汲み、想像以上に細やかな動きをする。それを、目で見て知った。盂炎の曳く二頭立ての戦車に蹂躙されるだけのはずの哪吒と楊戩は、まるで風に木の葉が遊ぶようにして、その突撃をかわした。

 まさか、と振り返って確かめると、さらにあとに楔の形になって続くほかの戦車をも、同じようにしてかわしている。さらに、すれ違うとき、しばしば槍や剣が翻り、戦車の上の兵を叩き落としている。

 五十のうち、十ほどはただ馭者が馬に鞭をくれるだけの車になったか。盂炎は舌打ちをし、旋回を命じる。もちろん、自分の車だけであり、ほかの車は引き続き姫発を追わせる。


 魚の群れから一匹だけが飛び出すような格好で、盂炎の戦車がゆっくりと軌道を曲げる。それに応じ、哪吒と楊戩の二騎も、迎撃のため馬首を向ける。

 互いに、近付く。

 同乗の兵が、また矢を放つ。動きながらの射撃は狙うのがきわめて難しいから、構えを見せたとたんに回避の運動を取る二騎には当たらない。

 さらに、矢。続けて、もう一矢。さらに次の矢を番えようとしたとき、蛇のように伸びてきた三叉の槍によって、兵の首が飛ばされた。

 盂炎の肌を激しく打つ風が、噴き上がる鮮血を後ろに運んでゆく。それを切り裂く剣。切先は、盂炎には届かない。しかし、はっきりと自分を見つめる楊戩の目が、兜の奥で光っているのが見えた。

 すれ違う。たったその一瞬で、槍と剣を同時に受けた。あり得ないことである。

「もう一度だ。旋回」

 馭者に命じた。応、と返ってくるはずの声が、なぜか無い。

 ぱっと目を落とすと、馭者が、肩を落とすようにしてうなだれている。横額には、ぱっくりと傷が口を開けており、そこから脳がこぼれていた。

 楊戩の斬撃。自分に届かなかったのではなく、切っ先で馭者の頭を割るためのものだった。

 肌が粟立つ。それを、盂炎は感じた。

 鞭を受けなくなった馬は、少しずつ脚を緩めてゆく。止まるまでに、彼らは自分を殺すだろう。そう思う。

 しかし、それは、弓兵や馭者のように、ただ槍や剣を受けて死骸になるだけということを必ずしも意味しない。武器を交え、打ち勝てば、自分は生き、彼らが血を振り撒いて死ぬのだ。


 馬の脚が、さらに緩まる。離脱、旋回をしていた哪吒と楊戩が、近くなる。

 追って来い。ここまで。盂炎は車の上、立って長槍を握り直した。

 馬の蹄が、地を叩く。鼻息すら、目の前に。

 炎が猛る。いや、哪吒の槍である。耳の横を通り過ぎてから、そう知覚した。次に、風。それは、楊戩の剣だった。どちらも盂炎のいのちに届くことはなく、空を切っただけだった。

 また、旋回。次が来る。哪吒が隙を作り、そこを楊戩が突き、止めを刺す。そういう動きである。軍を従えず二人であっても、彼らの動きは用兵そのものだった。


 来る。いや、もっと来い。

 哪吒の槍。今度は、切っ先で受けた。すかさず、脇腹を楊戩の剣が狙ってくる。

 笑っていた。その剣を胴体に受ければ、着ている鎧など無いかのように両断されるだろう。

 槍の刃同士を交差させたまま、右手を上げて柄で脇腹を守る。いのちを狙ってくる二つの武器を、それでしっかりと止めた。

 笑う。今度は、声に出して。

 哪吒の三叉の槍の刃から、自分の刃を滑らせる。そのまま車の上で回転し、天地の狭間を激しく斬り払う。

 哪吒と楊戩の駆る馬の首が同時に飛び、二人の達人の体勢が同時に崩れる。

 勝機。振り切った槍の慣性を、腰と背で押し戻す。

 右脇に潜り込むようにぶつかってきていた楊戩。まず、それである。

 刃を素早く引き、そのまま首を刎ねてやる。そう思う前に、身体が動いていた。

 かねが鳴り、火花になって散る。

 盂炎の槍を、馬から転がり落ちかけた姿勢のまま繰り出した哪吒の槍が防いでいた。

 舌打ち。

 楊戩も哪吒も、地に転がり落ちる。


 汗を、かいている。冬などとっくに過ぎ去り、春すらも終わっている、高く飛ぶ猛禽が鳴いているが、地上のあちこちに散らばる死体を狙っているものらしい。

 死ねば、ああなる。鳥か、狼か。好き勝手に自分の体を食い荒らし、やがて土になる。そのかわり、彼らは自分の身体を糧にして冬を越す。そして春になれば、骸のあったところにはまた草が生えるだろう。その草を兎が食み、子を育てる。その兎はまた猛禽の糧となり、卵になって孵る。

 それが、死の向こう側。ただし、自分はそこにはいない。


 目の前の二人の周人も、同じ。

「——申公、盂炎だな」

 若い。哪吒である。声を聴くのは、はじめてかもしれない。そうではないかもしれない。どちらでもよい。知らぬ間に、自分は申公などと呼ばれるようになっていたものらしい、と思い、それがなぜかおかしかった。

「どうして、馬の首のみを飛ばす。お前なら、俺たちの首をふたつ同時に飛ばすことなど、わけもなかったろうに」

 問われている。答えなければならない、と自然に思った。

「馬に乗ったままぶつかり合うような戦いを、俺は知らん。それだけだ」

「では、なぜ車をも降りた」

 そういえば、足元には草と土の感触がある。

「馬の駆けぬ戦車など、ただのまつりの壇でしかない」

 槍を構えた。

 ほんとうは、ともに土を踏んだまま、戦ってみたかったのだ。それを言うと二人に笑われてしまうような気がして、つい、別のことを言った。

「祀の壇か。なるほど、贄を屠るには、うってつけではないか」

 楊戩の気が、高まってゆく。古今に例のない騎馬隊の指揮者というものではなく、やはり、両足を地につけて剣を構えるこの姿こそ、彼のほんとうの姿。そう確信する。

「あんたらの好きなうらないでは、どうだったよ。勝つか否か。血贄が足りねえと、黄帝さまも仰ってただろうよ」

 哪吒も、槍を低く構える。どういう銅の配合なのか、刃がほんとうの炎のような色をしている。


「あとで悔いるな。お前は、自らの敗けを、自ら選んだのだ」

 楊戩。ほんの一寸だけ左足を前に出した。それだけで、山が動いたほどの圧力がある。

 これこそ、戦い。古くより、盂とは武を為すものだった。かつて、遥か祖先が商に戦いを挑んで敗れて以来、ずっと商のために盂は生きてきた。

 戦いを挑み敗れたのに、許された。それどころか、盂の武は天下に二つ無しとし、商王とおなじ暦を用い、おなじ祭祀をすることすら許された。


 すべては、武。このところ自分が影でこそこそとしている間諜のことなど、どうでもよいのだ。

 今、この天地の狭間に、いのちが三つ。それだけでいい。

「——ゆくぞ」

 槍。べつに、剣でもいい。わざわざ槍を捨てて腰からそれを抜くより、すでに手に握っている槍を使う方が手っ取り早い。そういう、どうでもいい思考がふと浮かび、それはすぐに深い水の瀬に沈んだ。

「お前は、ここで敗れるのだ。盂炎」

 楊戩が、何か言っている。それすら、どうでもいい。

 土に生える草。その一本一本のいのちの息を、足の裏で感じることができる。そこを這う地虫にすら、いのちの発する熱がある。


 遠くで、鳥が飛び立った。その羽ばたきの一つひとつが、ゆっくりと見える。

 目の前の哪吒の太い腿が、さらに膨れ上がる。

 踏み込んでくるのだろう。しかし、それもゆっくりとした世界の中のこと。

 ——いのちの中にある。

 こういうとき、そう感じる。そしてそれは、そう多くあることではない。

 ——得難いものを得ている。

 天地の一部に自分があることを、ことほぎ賛じたいような気分である。


 それすらもゆっくりとした世界の中に溶けたとき、盂炎もまた、激しく土を踏んだ。

 ぶつかる。

 三つのいのちが。

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