申にて
周本軍が攻め寄せている、申のことである。
盂炎は、数度にわたる周軍の猛攻を、ことごとく跳ね返していた。周軍の強みと言えば騎馬隊であるが、それで版築の強固な城壁がどうなるわけでもない。寄せがあるたびに城壁から矢を浴びせるなどし、時に自ら壁の外に出て戦車を指揮し、追い散らした。
周軍は、戦が上手い。今まで数十度の戦いの場に出てきた盂炎は、率直にそう思っている。攻撃を跳ね返してはいても、損害を与えられていないのだ。
まず、指揮がよい。病のため死んだという姫昌の子の姫発が総指揮であるが、実際はその下に位置する格好になっている楊戩の采配である。大将格の哪吒も、猛烈な突進力と鮮やかなほどの撤退ぶりを交互に見せ、なかなかに捉えどころがない。少しでも深入りすれば、たちまち痛撃を被ると直感が訴える。そういう戦をする男だった。
情報の網。それを構築し、太くし、商のために活用する。それが、聞仲に与えられたこの数年の任だった。商のためになるか、と問うたところ、商のためになるからこそ、お前にしか頼めぬのだという答えが返ってきた。だから、できるだけのことはしてきた。
申は地理的にも周への門のような位置にあるうえ、黄河に繋がる渭水を利用した水運も盛んである。情報の網のことをするのは、簡単だった。
何度か、申公豹が訪ねてもきた。そのたび、彼は貿易の道のことを語ってくれた。だからどうということはないが、旅人はどこで休むだとか、そういう話は情報の網を構築するのに役立った。たいてい、そういう拠点には、すでに旅人のための情報を扱う者がいた。中華の外から来る旅人は、自分の旅の経路を決めるため、中華の中に住む人よりも中華の情勢に敏感である。以前に通ったから安全と思い込んだ道が、豪族間の戦闘の場になっていたりすれば生命にかかわるからだ。
彼らのための情報を扱う者は、かなり古くからあったらしい。人をやって渡りを付け、取り込みさえすれば、それはすぐに商のために働く者となった。申公豹にこんど会うときは、情報網のことについて礼をしなければならない、と思っている。
任された仕事を、上手くこなしている。しかし、それよりも、目の前の払っても払っても集まってくる蝿のような周軍を睨んでいる方が楽しかった。誰がどう言おうと、自分は武人なのだと思っている。情報なるものを扱い、人の中に隠れて生きる
「あの蝿どもは、いっこうに退きませんな」
城壁の上、副官の一人が、忌々しげに言う。
「なに。奴らは、機を窺っているのだ」
「機など、いくら待っても訪れるはずもありませんぞ」
それはそうである。周軍は城壁や門を壊すための攻城兵器なども持ち出してはいるが、はじめにありったけの火矢を浴びせて二、三機を焼いて見せたところ、同じ目に合うのを恐れてか繰り出して来なくなった。あとは、騎馬や歩兵、弓ばかりである。これでは、そのうち消耗して全軍撤退となるのは目に見えている。
食糧については、また例の屯田をしているらしい。だが、攻め手がない以上、ただそこで粟や麦を育てても、収穫の頃には撤退を余儀なくされるだけである。
周軍が待っている機があるとすれば、この申ではなく、おそらく東だ。盂炎は、そう嗅ぎ取っている。斉軍を中心とした、東の諸国や豪族の連合軍の勢いは凄まじく、すでに二つの邑が降伏し、一つの邑は総力を挙げて抵抗したものの一人残らず殺されるような目に遭っている。
東が破れれば、朝歌に手を伸ばす構えを見せられる。黄河を使えば、幾つかの要所は完全に抑えなければならないにしろ、それが可能になる。そうすることで、今度は北から豪族や小国どもが押し寄せてくる。
それを、待っているのだ。自分が、この申を棄て、朝歌の防衛に回らざるを得なくなるときを。
聞仲も、それを危惧していた。軍議のため朝歌まで出向いた際、そのことを話している。
「
と、周が敷いた策のことを聞仲は名付けた。
従、とは縦の意味で、衡、とは横の意味であり、まさに今、商が北、東、西から締め付けられつつある状態をあらわすにはうってつけの名である。これほどまでに大規模な策を敷く者は、天地がはじまってから無かった。と天下第一の軍事の天才は喉を重く鳴らしていた。
救いがあるとすれば、南の
どれだけ激しく攻めても、この申は落ちるはずがない。それが周軍も分かっているから、深入りはして来ない。おそらく、そういうことなのだろう。
「忌々しい山猿どもめ」
と、副官が歯を噛んだ。それについて盂炎は、
「しかし、その猿の知恵は、なかなかのものではないか」
と答え、静かに地平にうずくまる周軍を眺めた。
「猿に、知恵などあるものでしょうか」
「まあ、落ち着け」
盂炎は、さすがに冷静である。
「このままでは、この申邑も、奴らに明け渡すことになりかねん」
副官ももちろん、周が敷いているであろう合従連衡の策については認識しているから、頷かざるを得ない。
「それを破る手立てが、一つあるな」
年長けた盂炎は、この若い副官を気に入っており、このようにして薫陶を授けるのが癖のようになっている。朝歌で長く過ごす一人息子の盂鄭と同じ年頃なのである。いずれ盂鄭が朝歌から戻れば自分は一線を退いて盂族のことを譲り、その副官として付けたいと考えている。
「どういう手があるのでしょう——」
副官は、毎日朝から日暮れまで城壁にへばりついているがために焼けてしまった肌に皺を刻み、考えた。
「簡単なことだ。ここで、奴らを破るのだ」
しばらく待っても分からぬようなので、盂炎は見出している最適解を口にしてやった。
「まさか、打って出るというおつもりですか」
副官は、驚いている。これまで盂炎が戦車隊を出すのは、騎馬隊が構えを見せたのに対応し、それを散らすためなど、限られた目的のあるときだけだった。それを、大々的に城門を開いて兵を放ち、ぶつかり合って周軍を破ってしまおうと言うのである。
「そんな。城に籠る方と外から攻める方では、籠る方が何倍も有利ではありませんか」
それは、そうである。しかし、その当然の理屈に従えば従うほど、合従連衡が完成することを許すことになる。城に籠ったとて、商や他の邑からの応援など来るはずがないのだ。だから、下手をすれば、こちらが先に枯れてしまうということにもなりかねない。
「破るのだ。それしかない。この場においてそれを選ぶことができるのが、盂の勇というもの」
盂炎は豪快に笑ってそれを決定し、副官に、全軍余すことなく打って出るための準備を命じた。
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