構える男

 おそらく、周の豊邑のある関中盆地(これは後代の呼称であるが)などは、いまだ山に雪を戴く様を見ることができるのだろうが、平地では、ほとんど雪は積もらない。だが、春が来れば、はるか彼方の山地において積もった雪が融け、それにより朝歌を潤す黄河水系の河川の水量も増す。


 聞仲を見下ろす陽はもはや春のものではなく、影をさらに濃く落とそうとしていて、もう夏が近づきつつあるというのに、今さらそのようなことを思う。

 いななき。思い思いに牧を歩き、草を食んでいる。それを眺めるのが、子供の頃から好きだった。いつか、何千もの馬の群を従え、戦いの場に立ってみたいと思ったものだ。


 この時代、騎馬はない。異民族の文化であるそれを取り入れ、戦争に投入したのは、これよりあとの時代の趙国であったと思う。

 聞仲が見回っているのは、戦車を曳くための馬である。王が軍事訓練を兼ねた狩猟に出る際も用いるし、もちろん実際の戦においては強力な兵器となるものであるが、戦車といっても、もちろんキャタピラで悪路を走破し砲門から砲弾をぶっ飛ばす現代のものとは違う。

 木で作られた荷台のような部分に兵を乗せ、そこから弓や槍、などで敵を攻撃するためのものである。また、荷車自体にも銅でもって武装が施されており、車軸に剣が備わっていて走ると回転するようになっており、それにかけられたらひとたまりもない。

 そのような凶暴な兵器が、二頭の馬に曳かれて突撃してくる。後代、たとえば戦国時代あたりの記述においては五頭立てで兵が何人乗り込んで、というように描かれるが、すでにその時代においては戦車での戦いというのは旧世代のもので、馬車といえば貴人が移動のときに乗るものであったから、それを当てはめたのであろうが、実際に遺跡から出土するもののほとんどは、馬二頭によって曳かれる一人か二人乗りのものである。

 しかしながら、それだけでも当時は最高の兵器であるから、戦車の存在を認めた異民族どもは逃げ散った。この戦車を活用できるだけの物資と人数を確保していられること。それが、商が最強最大でいられる秘訣である。方、と彼らが呼ぶ反対勢力にも馬車を用いるものがあった記述はあるが、その規模は桁違いであったろう。


 いつ、これを投入するか。その見極めについては、戦いのないときも周囲の者や将軍たちと、何度も机上の模擬戦を繰り返し、感覚が錆びぬようにしている。いざ投入したとして、思ったとおりに運用できるか。それは、こうして実際に馬や兵の様子を見回りながら確かめる。

 今日、周が攻めてきたとして、今日、それを撃滅できる。そうでないと感じた部隊は、罰した。


 副官の郭戴かくたいに、名を告げてゆく。それらは、馬の世話を怠ってあまり駆けぬようにさせてしまっていたり、装備への気配りが足りず、弓の数と弦の材料の残量が合わなかったりする部隊の長であった。

 反対に、馬の意気が高いままで兵も活発に動き回っているような隊の長については、褒賞を与える。その者らの名も、告げてゆく。


 よく働いている隊については、いちいち食料や物資の残量合わせをしたりもしない。馬の毛艶や兵の目の輝きを見ていれば、細かいところまで管理が行き届いているのだということが分かるからだ。万一、不正が発覚したら、どのみち隊長は斬首だ。だから、何もかも締め付けるより、自発的に軍のためになるような行動をする者が一人でも多く隊長連中の中から出てくるようにしてやる方がよい。


 聞仲がこれまでの生において見たことのある老人で最も年長けていたのは、生家の近くに暮らしていた禿げ上がった老人で、八十あまりで死んだ。つまり、自分も、どれだけ長命であったとしても、あと二十年もすれば死んでいるということだ。

 その老人も、聞仲が物心ついたときには耳が遠く、剣の稽古をはじめる頃には足を悪くし、槍を振り回せるようになる頃には寝たきりになっていた。生きたとしても、戦場に出ることができる時間は、もっと短い。そして戦場に出れば、どのような小さな戦いでも、死が昔からの友人のような顔をして付き纏う。戦場でなくとも、今、こうして毛並みを確かめている馬の機嫌を誤って損ねてしまい、蹴られて死ぬかもしれぬ。


 今日死んだとしても、昨日より良い軍であること。自分が死んだとしても、今日より明日の方がさらに良い軍であること。それができる人と仕組みを作ること。生きるというのは、それをすることだと思い定めている。それが、国を作ることだと思っている。


 天下の諸国や豪族が、どれほど周に付くのか。

 天下に満ちている不満は、商に対するものではなく紂王に対するものである。そうであるなら、いざ商が叛乱撃滅の軍を発したら、従う国は多いのではないか。紂王もいずれ老いて死ぬが、商は彼の死後も続くのだ。王は国のもとであるが、国そのものではない。だから、それほど恐れることはないのかもしれない。

 それでも恐れを感じるのは、分からないからだ。知れば、どうということもない。仮に、想像もつかない危機がそこにあったとしても、知れば、対応すればよいだけのことになる。だから、知りたい。


 呂尚なる者も同じように考えるのだろうか、と思う。まだ見たこともないその者がどういう人間なのか、知りたいとも思った。

 それだけ、この国を、天下を愛している。そう自覚している。幼いころからそば近くで見守ってきた紂王のことも、大切である。

 今は酒に女に入り浸りであるが、こうなるはずではなかった。王を継ぐのが若すぎたのだ。王になるということは人の子であることをやめるということであり、その痛みも苦しみも知ろうともせぬくせに、暴虐だ暴政だと言う者には人の子として持つべき優しさが足りないと思う。


 とは言え、思うさまに振る舞い、その意と異なることがあれば腹を立て、いたずらに人の命を損なうようなことはあってはならない。ましてや、王である。すべての人の上に立ち、その規範であらねばならぬはずの王である。

 天下の不満。それは、やはり紂王に向いている。役所に石が投げ込まれたり役人が斬られたりするのは、それが紂王の代執行機関だからだ。


 では、王が変われば、不満は治まるのか。

 そのことを考えることはできない。自分は、商の軍人なのだ。そして、紂王の守役であったのだ。

 どうすれば、とよく考える。結局、答えはない。

 自分にすべきことがあるとすれば、矛となってこの国と天下を苛むものを打ち払い、盾となって愛すべきものを守ることのみなのだから。

 先に紂王との間で話題に上がった、盂炎のような者もいる。天下の全てが紂王を害そうとし、商を攻めようというわけではないのだ。

 ごく一部の限られた者。だが、決して無視してはおけぬ者。周の一連のことは、そのようにして捉えるべきと思い定めている。


 巡察を終えた。聞仲の姿を見ると、兵の意気は嫌でも騰がる。些細な非違を発見することではなく、むしろそれが目的であるような部分もあった。

 館には戻らず、宮殿の、執務のための部屋に入った。この頃の文字というのは占いをした骨や甲羅にその結果を掘り込んだり王が即位したときにその歴を記したりするためのものであるから、書き物はない。せいぜい、兵の数や糧秣の量などのことを、竹の皮に線が一本で百、丸が一つで千、というような具合で記号を書き込んで計算する程度で、あとは全て頭の中で考える。今夜のうちに、今日巡察をした部隊の人数と馬の数、資材の数を、竹の皮と自らの頭に残しておきたい。


 ひととおり終わると、ようやく館に戻る。執務の部屋で夜を明かすこともあるが、よほど遅くならぬ限り、できるだけ館に戻ることにしている。夜が更けても、妻は必ず起きて待っていた。執務部屋に泊まるときは、使いを寄越して先に眠るように言い付けた。自分は軍や国のためなら眠らなくてもよいが、妻が自分のために眠りを捨てるのは可哀想だからだ。


 干した肉を炙っただけのものと、麦を少し。それだけを口に入れ、あとはまた、妻と会話をした。閨で、今夜も妻の体温を感じ、朝に向かって構えた。

 今日は、何も、大きなことはなかった。明日もそうであるとなぜか人は思うが、違うかもしれない。

 必ず、明日も同じであるべきこと。

 明日何があっても、即座に対応できる己であること。

 国というものが、天下を安んじるべき唯一のものであるということ。

 あとは、まどろんでいる自分を見つめて微笑む妻の顔が、ここにこうしてあること。

 それだけで、聞仲にとっては十分であった。

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