老いてなお
「王に」
と、いちいち目通りを願い出なければならなくなったのも、わりあい最近である。鹿台が完成する前はそうでもなかったが、何千、何万もの人の屍の上に建ったとも思えるこの未曾有の建築物が出来上がってから、紂王はさらに表向きのことに興味を示さなくなった。
このあとの時代でもだいたいそうであるが、王がこうなると、何をするにしても取り次ぎの臍を曲げぬようにしなければならなくなる。そして、それは歪んだ権力の温床となる。
聞仲は、それを馬鹿らしいと思っていた。軍事における最高の権力を持ってはいるが、それは商のために必要だから保持しているというだけのことであり、たとえば明日それを剥奪されたとしても自分と同等かそれ以上の能力を持った将軍でもいるのであれば、いっこうに構わないといったところがある。
——己で何もせぬくせに、王の近くにあるというだけで偉くなった気になる者がいるものだ。いや、己が立つのが薄い氷か風の前の砂の上でしかないと知るからこそ、その立場を保とうと躍起になるのかもしれん。
と冷ややかに見ている。
——王とは、それだけで尊いものだ。国のもとであり、王なくして国はない。武人も文官(この場合は祭祀や占卜を取り仕切る者のことであろう)も、その国のため以外、何のためにあるのだ。
と、自分の役割についてもはっきりと思い定めている。ただ、ふだんは寡黙であるから、
「聞仲どのか。王に、何かご用か?」
と高圧的に問う取り次ぎに対して、大師たる自分が訪ねてきているのに用が無いわけがなかろう、と怒鳴ったりはしない。先の通りだから、この取り次ぎも、こうして居丈高になっていないと二本の足で立っていることもできぬのだ、と思ってやることにしている。
鹿台は天下の中央でありながら、そうではない。王が座し、民を統べるべく政を行うところが、そうだ。聞仲は、そう思っている。その理屈で言えば、ここではない。ここは、王が酒に耽り、女と遊び、疲れれば眠るだけの場所である。本来、天下の産物としてこれすらも王の統べるところであるはずの鳥が、贅沢な飾りの施された石壁を切り通して作った窓の縁に止まり、嘲るように笑った。
だいぶ待たされた。
酔うほどに酒を食らっていたのだ、と明らかに分かる紂王が、ようやく現れた。この時代の製酒技術は後代に比べて低く、したがってアルコール度数は低い。いかに我々東洋人が、雑菌の繁殖しやすい湿地などを利用した稲作や粟作による食文化が生んだ副産物である食中毒の原因となる雑菌を殺すためにヨーロッパ人のようなアルコールへの強い耐性を身につけなかったといっても、相当に過ごさなければこれほどには酔わないであろう。
「聞仲か。どうだ、最近は」
と、紂王は上機嫌である。周の叛乱のことを知らぬわけもなかろうに、何とも呑気なものだ、と内心思った。しかし顔には出さず、
「王は、いたって上機嫌でいらっしゃるようで」
とのみ言った。皇帝ではないから、始皇帝以降の王のような、顔を見てはならないとか直接言葉を交わしてはならないとか、そういう風習はない。
「お耳を騒がせるようですが、周のことです」
「なんだ、改まって。まさか、攻め寄せてきたわけでもあるまいに」
「そうならぬよう、私は苦心しております」
「天下にその人ありと言われる聞仲の心を苦々しくさせるとはな。周め、それだけで褒めてやるに値するわ」
なかなか、本題に入れない。こういう、どうでもいい冗談を聞仲はあまり好まない。物事はいつも端的であるべきだと思っている。
間者(この時代にその呼称はなかったと思われるが、便宜上、今後もそう表してゆく)のことを、紂王に伝えた。
「これは、恐るべきことです。これまで、このようなことはありませんでした」
「鹿か猪くらいのものでしかないと思っていたものが、じっさいは熊か虎であったようなものだ。そう言いたいのだな」
侮ってかかってはならない、というだけのことを、いちいちこのようにして言い換える。これも、聞仲の好みには合わない。
昔は、こうではなかった。才気もあり体も強く、百年に一度の王になると言われていた。先王が病を得てから、紂は変わった。
昔のことを思い出すのは、世のあらゆる老人がする。自分がするのは、これからのことを考えること。死ぬまで、そうである。
「結局のところ王威に服し、戦にはならない。そういう、文官どもの楽観的な意見を、払い除ける必要があります。商がひとつとなり、周に当たらねばならぬのです」
正確には、周を中心とした商を取り巻く多くの国の連合軍とである。まだ、どこが周に同心し、どこが商に従うのかも、正確には見えていない。口ではよいことを言いながら、あっと思ったときには寝首を掻かれているかもしれぬのだ。
周は、そのあたりのことも把握しているのだろうか。商という文字通り天下の中心にある国を取り囲むようにして湧いて出た敵が一斉に攻めかかってきたとして、勝てるのか。
「少なくとも、周は、
自分の頭の中にあることを、紂王に処理できる量の言葉に変換して伝えてやる。紂王に、四方八方の敵に向かうというのがどういうことなのか、その先勝ったとしても土は焼け人は死に田畑は荒れ、国全体に大きな傷が残るのだということを理解させるのには、まだ時間が必要である。
かと言って、危機感だけを煽ってもならない。紂王が酒や女、天下の珍品に心を異常に寄せるのは、不安だからだと聞仲は思っている。
人として最高の場に就いた。人でありながら、それを超えた場である。だから、いつ、どのようにしてそれが喪われるのか、想像もつかない。それが目に見えぬ不安感となり、紂王を狂わせている。そのように見えている。
「こちらのことをいくら知られたとて、周ごとき、鶏の首を捻るほどの力でもあれば、すぐに潰せるのだ。お前ほどの者が、何を恐れている」
「恐れねばなりません。恐れねば、こちらが潰されるやもしれません」
「老いたな、聞仲。本来なら、とうに子や孫に後を譲り、館で日々を安楽に過ごしていてもよいものを。お前にばかり苦労をかけて、済まんな」
こういうところは、昔と変わらない。世の人が影で紂王のことを暴虐だと謗っているのは知っているが、しかし、心根は優しく、こうして目の前の相手に気遣いをすることもできるのだ。
「なんの。私が、自ら望んでしていることであります」
「
聞超とは聞仲の長男で、今は将軍の位にある。その子が聞韋で、千人の部隊の長に据えてある。
「おります。しかし、恥ずかしながら、我が子や孫は、この私の才にはどうしても及びません」
「はっきりと言う。たしかに、お前の才を超えるような者など、この天下がどれだけ続いたとしても現れはしまいな」
「才というのは、その個が持ち、磨くもの。そう思っています」
王の子だから王、というのは思い上がりだ。そう言っているようにも聞こえるが、どうであろうか。
「西のことは、
盂炎というのは商に忠実な、盂邑という都城を治める豪族で、その首長の炎のことである。炎、の名のとおり情緒的で、かつて
「盂は人も多く、兵も強いことは確かです。周が盂を抜かずに無視をしてこの商を目指すなら、ただちに盂はその背後を突くでしょう。それゆえ、周は盂を無視はできないことは確かです」
「そうであろう。あれほどの男だ。今までも幾度となく宝貝を束にしてくれてやったし、俺の用いる暦を使うことを許してもやっている」
余談にはなるが、この時代、原則としては太陰太陽暦である。一年は三百六十五日で太陽の運行に従うが、一ヶ月は二十九日ほどと月に従う。その差を閏月で埋める。そういう暦である。
しかし、王かそれに近しい者は、その暦に、祭祀の周期も混ぜて季節を知らせるというような特殊なものを用いていた。複雑なものでややこしいので詳細な説明は省くが、そのために一般には用いられることなく、逆に王に許されてしか用いなかったようであり、そのことを紂王は言っている。
「その通りです。盂炎なら、たとえ自らの身が骨になったとしても周の者どもを止めにかかるでしょう」
それほどの器の者が、紂王個人ではなく商という概念に信服している。それは、いまの状況を多くの者が楽観視する要因の一つであることは間違いない。
しかし、と聞仲は思う。
「仮に周が東に軍を向け、盂と当たったとして、そしてそののち勝ったとして、おそらく長い時間が必要になることでしょう。ですが、その間に、ほかの侯や方(敵対関係にある豪族や異民族など)が攻めて来ることも考えられます」
「そうであろうかなあ」
言下に否定はしない。これが聞仲以外の者からの進言であれば、面倒だと感じた紂王は、奥に引っ込んでしまっているかもしれない。しかし、聞仲が言う以上、いちおう聞く姿勢は取っている。
「何が起きるか分からん、とお前は考えているのだな」
「いかにも」
「これが他の者でなくお前だからこそ、そうなのであろうと俺も考える。正直、誰もが己のためにしかものを言わぬようになってしまっている。俺も、誰の意見が国のためになるのか、分からないのだ」
それが、紂王が政治から遠ざかっている一因になっている。
「私もまた、私のために」
「そうなのか、聞仲」
「はい。私にとっては、この大商邑が全て。それこそが、天下を平らにする唯一のものと信じています。これまで、数々の王が、世を乱さんと企む方どもを打ち倒し、そのうえに今の天下があるのです。私は、それを守るのみです」
「昔から、変わらぬな」
「老いた、とは仰せにならぬのですな」
はじめて、聞仲が笑った。紂王も、つられて笑う。
「世が乱れ、畑が荒れ、河が血で濁る。そのようなことを、誰が望みましょうか。長く剣や矛を取りながらにして、思うのです。それらは、もう二度と剣や矛でもって人を圧することがない日のために振るうのだと」
「それが己の世でなくとも、次の王、その次の王のため。そう教えてくれたな」
紂王の目に、少しだけ精気が戻った。まだ王になる前に聞仲に教育されていた日々のことを思い出しているのかもしれない。
「だから、私もまた、私のために申し上げていることに変わりはありません。私がしたいこと、すべきであると考えることが、御身を
「そう言ってくれる者が、ほかにはおらん」
「それが、この国が今抱えている、最も大きな病であるのかもしれません」
「俺が、悪いのだ。何も分からぬまま、酒毒に身を任せる程度の器でしかない。王になど、なるべきでなかったのだ、俺は」
「そのようなこと、余人には間違っても申されますな」
今の紂王ならば、そのようなことを漏らせば、誰に寝首を掻かれるか分かったものではない。しかし、紂王は、その意味では捉えなかったらしい。
「分かっている。お前だからこそ、言っている」
と力なく頬を笑ませた。
「盂炎にも、周のことは今まであちこちの方どもがそれぞれ起こしていた叛乱とはわけが違う、と伝えます」
「分かった。そうしてくれ」
「間諜のことは、お任せください。しばらく、確かなことを探ってみます」
「頼む。——聞仲」
「はっ」
「この鹿台にしろ、占卜をする者どもが、勝手に騒ぎ出して、気が付けば出来上がっていたな。王とは、国とは、大変なものであるな。俺はやはり、酒を食らい、女に溺れるほどのことしかできん。誰も、俺が自分の考えでもって天下のことを見て、決めるようなことなど望んではいないのだから。誰もが、俺がここにいることにのみ意味があると思っている。そして、己がそうしたいと思うことに、俺というものを好き勝手に使うのだ」
「許されざることです。しかし、それを許されたのは、御身でもあります」
「耳に痛いことを言う。しかし、お前がいつまでもいてくれるからこそ、俺もまた心安く過ごしていられるのだ。まあ、お前の言うとおりにしよう。お前のすることについて、文官どもは、黙らせておく」
紂王が、立ち上がった。話は終わりということである。瓚、だか何だか、聞仲が聞いたことのない妾の名を大声で呼び、引っ込んでいった。
居館に帰る。そこには、妻がある。紂王が、一人やる、と物でもくれるようにして与えた妾であるが、聞仲の妻が亡くなって以降は、妻ということにしてある。
もう六十になった聞仲と比べれば、若い。まだ二十を幾つか超えたばかりである。本人も妻であることを自認してはいるが、一族間での諍いにならぬよう、子は作らぬことにしている。あるときそのことを詫びたところ、
「あなたには、すでに立派なお子が何人もいらっしゃいます。そのお子たちよりもさらに年若のわたくしなどが、さらに我が子を望むなど、あるはずもありません」
と、内心はどうあれにっこりと笑って承諾してくれるような妻だった。紂王の激しすぎる責めに毎夜悩まされることを思えば、聞仲の館は妻にとってもそれだけで天国なのだろう。
身のまわりのこともよく気がつき、無駄のない動きでこなす。そういうところが、気に入っていた。いつしか、誰にも明かさぬ内心のことも打ち明けるようになっていた。
この日も、紂王が間者と話した内容について語った。ひとしきり聞仲の話が終わるまで妻は頷きながら聞き、
「誰よりも多くお働きなのです。館にいらっしゃるときくらい、難しいことはお考えにならなくてもよろしいのでは」
と微笑む。
「
「そうだな。もう、眠るとしようか」
閨では、めったに交合はしない。ただ、妻の腹だとか腿だとかに手を当て、目を閉じるだけだ。妻は、聞仲が眠るまで、しずかに肩に手をあてがってくれる。
老いた、と人に言われるような歳になった。それでも、やはり、こうしていると、やわらかな眠りに落ちることができる。
それまでのほんの僅かな間、さまざまなことを思い返す。
たいてい、母のことであった。あとは、自分の子たちや紂王が小さかった頃のこと。
眠れば、またどうせ朝が来るのだ。そうなれば、自分は天下の聞仲として老体に鞭打って働かなければならない。
今すこし、こうしていることくらい、許されるはずである。
月が出ているな。
なんとなく、閨から見える月のことを口にした。ほとんど眠っていたから、声になったかどうかは分からない。
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