頬の月
「——そうか」
呂尚は、豊邑に戻った申公豹との久々の密談の中、呟いた。李靖も間者の長としてこの場にいる。
「長い仕事であったな」
「いえ。なかなか、珍しいものを見せていただきましたよ」
「黄夫人のことか」
「人とは、脆いものです。弱くもある」
呂尚は、答えない。申公豹が、くくと喉を鳴らして顔を覗き込む。
「申公豹」
「なんです」
「だからこそ、守らねばならぬのだ。そのために、国が必要なのだ」
脆く、弱いもの。そのために、国はなくてはならない。
「やり方は、任せる。たしかに、そう言いはした。しかし、今回のお前のやり方には、直視しがたいものがあるな」
非難ではない。感じたままを、述べている。申公豹にもそれが分かるから、乾いた笑いを立てた。
「私も、言っているはずです。あなたのために仕事をすることはないと。私が珍しいと思うものと、あなたの欲するものが重なったとき、私は私の仕事をする」
「分かっている」
「しかし」
李靖が、のっそりと口を開く。この男は酒もたいして飲まず、いつも同じような口調で話す。
「黄夫人を、それほど酷く死なせる必要があるのでしょうか。紂王がそうしたと人の噂になったことで、人心はさらに商から離れるでしょうが」
「そうだなあ、李靖どの。私のおかげで、あなたの仕事も、やりやすくなるはずだ。斉や楚と、まだ折り合いが付かないのでしょう?」
申公豹がまずあちこちに渡りを付けて回った。のちに李靖の手の者が各地に飛び、連合についての折衝を重ねている。しかし、それを始めてから二年が経っても、まだ、いつ各地の公や豪族が旗を立てるのか、その目処も立っていない。
商は、やはり強固すぎる。猛将の中の猛将である聞仲も老いてはいるが、なお盛んである。軍事だけではなくこのところ政のありようも変わり、占卜は儀式のときだけになり、より実質的な政治を敷くようになってもいる。その国ひとつでも手に負えぬほどであるのに、盂炎をはじめとする周辺の豪族の地盤もまた堅い。
「あるとき、一斉に立ち、あらゆる方角から商を目指す。そうでなくては、倒れない。そうでしたよね、呂尚どの」
「そうだ」
「そして、その同じとき、あの鹿台は、ひとりでに傾いている。そこを、叩く。それが、あなたの考えることだ」
「そうだ」
「じゃあ、今のところ、あなた方にとって私はとても役に立つ男だということだ。せいぜい、大事になさるといいですよ」
また西の風と同じ笑い声を立て、申公豹が立ち上がる。
「——ああ、そうだ」
思い出したように、背中を向けたまま手を挙げ、人差し指をぴんと立てた。
「そろそろ、虎邑を攻めてみられるとよいかもしれませんな」
呂尚は、しばし黙った。
「こんどは、虎邑に入るのか」
「ええ。そう思っています。朝歌からの使者が、雨の多くなる頃までにはもたらされるでしょうですから」
それで、申公豹のしようとしていることが分かったらしい。呂尚は、黙って湯の椀を口に付けた。
「申公豹どのを引き合わせたのは、間違いだったでしょうか」
申公豹の姿が消えてしばらく後、李靖がぽつりと言った。
「いや。あの男でなければ、できぬことがある。求めるべき国のため、求められるべきでない行いをするということがあっても、目を瞑るしかないだろう」
「呂尚どの。このところ、ひどく疲れておられる」
「今にはじまったことではないさ。姫昌さまに誘われたときは、まさかこのようなことになるとは思いもしなかったがな」
「呂尚どのが、言葉遊びをして姫昌さまをその気にさせたのです」
釣りをしたときの話のことを言っている。冗談だと分かるから、呂尚は少しだけ口を緩めた。あの渭水のほとりのことも数年前のことだが、もうずっと遠い昔のことのようでもあった。
「李靖。お前にも、苦労ばかりさせている。哪吒にも。楊戩の様子は、どうだ」
「ええ。問題ありません。呂尚どのの見えぬところでも、変わらず兵に接し、軍を鍛えております」
「そうか。志を同じくした相手のことも、お前に様子を見させているようで、心が苦しいが」
「そう仰っていたと、伝えましょうか」
「よせ。おれは、嫌われるくらいでちょうどよいのだ。姫昌さまが、姫発さまが、国の中心なのだ。おれは彼らが考えることのできぬことを考え、彼らの口から言わせてはならぬことを言う役割なのだ」
「そのお心のありようを、全てでなくとも楊戩も分かっているはずです」
「そう、信じている。そうでなくてもよい。おれは、おれの為すことを為すだけだ」
湯を飲み干す。
「妲己どのの様子を、申公豹に訊ねられなかったのですね」
「そうだな。おれは、己の求めるもののため、愛する妹すらも贄にするような狂った男だ。どうして、妲己のことを人に訊ねられようか」
「ご自身で、そのように仰るものではありません」
「なぜだ。おれは、あいつを捨てた。あいつは可愛いが、これから産まれるであろう国というものに較べれば、塵ほどのものでもない。そう思った。だから、紂王のところにやった」
妲己は、あの気性である。まるで夜に陽が差すように、商の人々の心を掴むだろう。そして紂王は心を捕らわれ、乱し、より人心は離れてゆく。
それをしろ、と彼女に命じることはできなかった。
ずるいものだ、と自嘲にも似た思いがある。自分で望むことを伝えもせず、彼女がひとりでにそうなることを期待したのだ。
それができてしまう自分が、ふと恐ろしいと感じることがある。いつまでもいつまでも側でともに過ごしていてほしいくせに、
恨まれて当然だ、と呂尚は思う。妲己にも、楊戩にも。
「おれは、紂王と似ている」
李靖には、その意味が分からない。呂尚はひとり苦笑し、呟きに変えた。
「おれと紂王は、もしかすると、この世の憎しみを全て引き受け、血みどろになって戦い、人を導く国を潤す河に、人の踏む大地になってゆくのかもしれんな」
「そうはなりません。私があちこちの情報を集め続けるようになって、もうどれだけ経ったでしょうか。その間、少なくとも、呂尚どのは国のことだけを、人のことだけを考え続けておられます。自分のことなど、顧みたことすらない」
「果たして、そうだろうか」
「だから、妲己どのをも手放してしまえたのです。あなたは、まだこの世にいないのと同じなのです。国というものが出来上がったとき、はじめて、あなたは人として生を受ける。そんな気がしています」
呂尚が立ち上がり、夜風を防ぐ窓の木板を外した。
その外に、月がひとつ浮かんでいる。
「妲己どのも、そう思っておられる。あの方ほど、あなたを知り、あなたを思う人は、ほかにいない。あなたが人になることができると思うからこそ、あの方は商にゆくことができたのです」
李靖はそれだけ言い、しずかに立ち上がり、座を辞した。窓の外に浮かぶはずの月が、呂尚の頬でも光っているように見えたからだ。
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