呂尚、姫昌を知る
閑話休題、この時代のこと
これまで、筆者は我が心のまま面白おかしく呂尚やその周りについて想像し、脚色とともに描いてきたが、まだ物語が熟れぬ今のうちに、この時代のことについて述べておきたい。時代背景についてより緻密に考察することが物語に味を持たせると思ってのことであるが、興味のいまいちわかぬ方は読み飛ばし、物語を急いでいただいても差し支えない。
実際、たとえば戦国時代や漢代ほどには、この時代のことは明らかになっていない。しかし、長年にわたる文献の研究と発掘調査から、いくらかのことは分かっている。筆者はもちろん歴史学者でも考古学者でもなく、大学でそれらの学問を修めたこともなく、大人になってから世間の諸先生方の研究の結晶たる無数の出版物に触れ、その内容を自分なりに統合して記憶しているにすぎないから、記憶違いや解釈の誤りなどについては不問としていただきたい。
もしこの時代のほんとうの有様について興味をお持ちであるならば、その述べるところの信憑性については賢明な読者諸氏において検証を重ねていただくとして、まず、我々の想像する「国」と、彼らの想像するそれとの違いについては触れておく。
後の世の人、たとえば殷代や周代について詳細な記録を残した漢代の人ですら、この時代の国や天下というものの概念を見誤っているふしがある。
漢代、それに遡る戦国時代あたりから、「国」とは、領域国家のことを指す。
国の治める地域があり、その境があるような、こんにちの我々が思い浮かべる「国」である。しかし、この時代においては、「國」に
分かりやすく言うと、國と國の境というものが無かった。やや専門的に言えば領域国家ではなく都市国家の形態であった。
だから、この街とこの邑は商が統治する、この街とこの邑は周が統治する、というような具合であった。国境がないわけであるから、周公がふらりと殷の直接統治の及ぶ申の邑にいる呂尚のもとを訪れても、無理は生じないというわけである。領域国家と都市国家という国家形態の微妙な違いを知らなければ、国とは領土を持つものであり、国境から向こうは別の国という感覚を捨て去ることができないであろうと思い、ここで断っておく。
まず夏の時代は考古学の世界ではまだ新石器時代に位置する。肥沃な土壌が人々の定住を促す黄河中流域において強固な社会的、政治的結び付きを持った集団が、そのはじまりなのであろう。そののち、その社会集団を取り込むような形で成立したと思われるのが、殷または商である。
殷というのが国号であったとは筆者は考えていない。物語でも触れたかもしれぬが、出土する当時の甲骨文字には殷という文字が見つからず、商という記載のみが見つかるとされるからだ。
それ以外にも、のちの世(具体的には漢代)において、かつて存在した正統な王朝を継承するのだという王朝成立の大義のため、
黄河文明、と歴史の授業で習ったそれの中心地に夏があり、商がそれに取って代わり、さらに周がそれを打ち倒す。それが、彼らにとっての「中華」の領域である。のちの王朝は、その連環を正統な天の巡り合わせであるとし、自らもまたその連環を継ぐものだとし、正統性を主張した。
そもそも、中華の華は夏であり、かつての夏(と殷と周)が興り盛んであった地域、すなわち国の中ほど、という意味(文字通りの中国である)だとする研究者もあり、そうであるならば、その点、中華人民共和国あるいは中華民国なる国号に親しんだ現代の日本に生きる我々にとっては感覚が合わない。
彼らの時代、もちろん北京も上海もない。北京は戦国時代には燕という国の領域にあたろうが、燕などという国は東北の辺境の小国である。おそらく現代の中国の首都がここにあるのはそのさらに遥か東北から中華を目指して南下した女真族の王朝の首都に由来があるのであろう。
上海にいたっては、おそらくこの時代、海の底である。戦国時代になればこのあたりに越という国が興るが、殷代や周代においては長江文明というのは「敵対もしくは親和する異民族の地域」でしかない。
また、周代のことを西周、東周と区別するが、この物語の主人公である呂尚が周の文王を助けて殷を討ち果たしたのちが西周、戦国時代に国の内が荒れ、首府を東に移して(かつての殷の首府があり、のちの世には洛陽などと呼ばれる)国を存えさせたのが東周である。
西周の領域はどうなったかと言うと、それが後に秦となる。西岐、とこの物語で彼らが呼ぶ周の本拠は当時豊邑という呼称で、殷を倒したのちやや東に都を移し鎬京とした。のちの秦の首府咸陽の、渭水を南北に挟んだほんの川向かいである。
秦は戦国時代には西方の辺境であると侮られたというが、はるか後の宋代に東の開封に大移転するまでずっと、この一体は長安という名で中華の首府であったわけであるから、もしかすると、中原、中華という概念とそれに付随する辺境という概念も、その時々のイデオロギーによって好きに移動させられてきたのやもしれぬと思う。
さて、国についての感覚からやや話が逸れたから、ついでに目を呂尚その人に向けてみよう。
彼は、ほんとうの姓は姜であるという。姜といえば西方の騎馬民族のことで、出自はそちらであるのかもしれない。また、呂尚が討ち滅ぼすことになる殷の紂王の正妻も姜で、呂尚の一族の出であるという説はわりあい知られているだろう。
呂尚が歴史に登場するのは、たぶん彼が老いてからであるかもしれない。
呂尚と文王との出会いについて、のちの漢の世になってから司馬遷が記した「史記」には三つの説が提示されている。以下に、やや乱暴にまとめておく。
ひとつは、呂尚は老いて余生を暮らしており、渭水で釣りをしていた。そこへやってきた文王と出会い、意気投合するというものであり、物語としてキャッチーであるから最も有名で、これが史実であると思っている人も多い。太公が待ち望んでいた賢者、ということで太公望なるニックネームを彼に与えたのはこの説である。
もうひとつは、呂尚はかつて諸国を遊説して回り、紂王にも仕えたことがあったが、思うところあって官を去り、落ちぶれていたところ文王に拾われたというようなものであるが、この説については筆者は特に懐疑的である。
まず、諸国を遊説するという行い自体、戦国時代的行動であり、この時代に孔子のような遊説家が存在したとは考えにくいこと。もう一つは、彼が姜であり、一族から王の正妻を出すほどの有力者であるなら、かならずその後ろ盾があり、落ちぶれて襤褸をまとったりするものかという私見である。仮に何か問題を起こして一族からも追放されたのであれば、それこそそのような者を文王が拾い上げて天下の賢人、我が師であるとして重宝するのは妙である。
みっつめは、呂尚は渭水で釣りなどまるきり縁のない、斉の国の人であるというものである。
べつに斉と明記されているわけではないが、東方の海浜に隠棲していたとあることから、すでに述べた彼らの天下の領域において東方の海浜といえばまず斉の国であると考えるのは自然である。長江流域は彼らの天下の外、黄河流域で東の海浜といえば斉しかない。
文王が流罪のような形で拘留されているのを解放した縁で士官したとあるが、そうでないかもしれない。
周の成立後、呂尚は斉の地に封じられて善政を敷いたのは有名であるが、呂尚が斉人であり、かつ、姜族の長か有力者であったなら、自然なことであるように思う。呂尚は文王や武王の創業のとき常に側にあった幕僚なのではなく、対等の実力者としてその号令に呼応して商を挟撃するような形で攻めたとも考えられる。そう考えるならば、呂尚の本拠はずっと斉から動いていないと見ることもできる。
何にせよ、よく分からない。彼がいつ、どこで何をしたのか、「史記」が編まれた時点ですでに千年前の人のことである。今から千年前、すなわち平安時代の人物のことを事細かに、あらたに知ることは極めて難しいと思えば、彼のことが誰にもよく分からないというのも頷かざるを得ないだろう。
だいいち、彼の著作として有名な六韜にも戦国期にはじめて成立した騎馬での戦いのことなどがふんだんに紹介されており、それだけでも後の世の人が彼の名を借りて示したものである(六韜のうち、現在確認されている最古のものは漢代初期のものであったと思う)可能性がきわめて高い。
結局のところ詳しいことはよく分からないが、呂尚なるすぐれた人物がいて、周王朝の成立に大きな功績があった。そのことをのみ重要視し、あとは既存の通説や逸話などを織り交ぜつつ、できるだけ矛盾は排除し、面白おかしく描いてゆくつもりである。
次にこのような場を設けることがあれば、この物語のタイトルの由来となっている封神演義という物語についてでも触れてみようかと思っている。
——さて、気が満ちた。この物語をさらに書くとする。
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