楊戩、天が屋根

 鹿台のことは、呂尚も知っている。商王がその造営を発表し、そのために勢力の及ぶあらゆるむらから人員を挑発し、事業の最盛期には働ける男の三人に二人までが駆り出されたという話である。

 むろん、それに対する対価はない。王たる己が座し、遊ぶ鹿台の造営に携わることができることそのものが対価という具合である。


 そんな馬鹿な話があるか、というのは呂尚のみならずあらゆる者が抱いた感想であるが、逆らったり断ったりすれば役人がやってきて無理矢理に連れて行くほか、財を奪い家を打ち壊し女子供が殺されたりするから、逆らえない。

 だが、中にはそうではない者もいる。


 楊戩ようせんという若者で、哪吒よりは上で呂尚よりは下という歳の頃である。これは申の隣の邑の出であるが、達しがありその理不尽なことが知れた途端、みずから家を打ち壊し、父老(役人への窓口となる村のまとめ役のようなもの)に出奔の旨を申し出、飛び出した。

 それが申の邑近くに寝ぐらを設け、道を通る役人を襲っては身ぐるみを剥がしているということで一種の痛快譚になっていた。


 国の側からすれば沽券にかかわることで放置できない。幾度となく討伐隊が差し向けられたが、その度に行方をくらましたり、山や藪に罠を仕掛けたりして上手くやっている。

 その楊戩が、ある日、呂尚を訪ねてきた。

 家の前で生の肉を売っていた妲己が、その肉に手を伸ばす者に声をかけたところ、それが有名な楊戩であったという具合であった。


「これは、失礼。私はものの道理を知らぬ身ですから、ここに置いてあるということは気のままに食ってよいのかと」

 言う割にその言葉遣いや物腰は理知的で、容貌もさわやかであったから、このあたりの山野を寝ぐらにしているあの楊戩だと聞いても警戒はしなかった。

「兄君に、お目通り願いたいのですが」

 と楊戩は言う。


「——とのことですが、いかがされますか」

 釣り糸を垂らすばかりでいっこうに魚のかからぬ呂尚が陸地にありながら舟を漕いでいるのを見つけ、声をかけた。

「——おれには、用はないのだけれどなあ」

 呂尚は億劫そうに、しかし今日はこのままこうしていても魚は獲れぬものと思い定め、竿を仕舞った。

「尚兄様、居眠っていらしたのね」

 妲己が大あくびをする呂尚にくすくすと笑いかけるが、呂尚はうん、と喉で答えただけで相手にせず、餌の付いていない針を見て声を高くした。

「いつの間にか、餌だけ取られている——」

 なにごとかを考えはじめた。妲己はそう見て取って、にいさま、と小さく呼びかけ、促した。



「これは。釣りに出かけておいでとのことで、夕まででも待つつもりでおりましたものを。私のために、わざわざ」

「いえ。どうせ、魚などせいぜい、雑魚が何匹か掛かればいいところですから」

 楊戩は、自分に会うためにもともとの予定を曲げてくれたものと認識し、土や埃で汚れた衣の皺を少しでも改め、礼を示した。

「山野を壁、土を寝床、天を屋根とする楊戩と申します。呂どののお知恵を授かりたく」

 呂尚の手が、ひらひらとそれを制した。


「やめてください。おれは、ただの肉屋だ。あなたに礼を尽くされることもなければ、あなたの求める知恵を持つかどうかも分からぬのです」

「いえ。あなたが哪吒の母親についての占卜をまやかしと見破り、単に体が弱っているだけとして肉を与え精を付けさせ救ったこと。財を持たぬ哪吒に、財とは別のものと引き換えに肉を与えたこと。そのひらめきと心行きに、私はひどく感じ入ったのです」

「哪吒の母親は、良くなったのか」

「ええ、それはもう。先生が肉を与えてから三日ののちに床から起き上がり、今では先生のご恩に報いるのだと言って家の裏を耕しているほどに元気だそうです」


 よかった、とはじめて呂尚の顔色が動いた。すぐあと、もとの色のない頬に戻り、

「先生は、やめていただきたい」

 と付け加えた。


「ところで、楊戩どの。あなたは、哪吒と親しいのか」

「私のように役人に追い回される鼠族であっても、川くらいは渡ります。いえ、そうだから、哪吒には色々と世話になっているとも言える」

 哪吒は、もしかすると、楊戩が役人から逃げる際、川の対岸や中洲に運んで匿うような手伝いをしているのかもしれない。それが、哪吒の、鹿台に対するささやかな反抗——哪吒の父親は、おそらくもう戻ることはあるまい——なのかもしれない。


「それで、あなたは何に困っているのか」

 呂尚の想像する限り、野盗である楊戩が困っていることについて手を貸してやるような知恵はない。だから、訊ねた。それだけのことであるが、楊戩はその意味を、手を貸してやるから用件を言え、という意味に取ったらしく、大げさに伏し拝み、感謝を述べた。


「鹿台にゆけという命に従わぬのは私の勝手。それゆえ、私は我が家を打ち壊し、邑を出て参りました。しかし、役人どもは、どうしても私を捕えられぬことに業を煮やしたのか、ついに私のもといた邑に、楊戩を差し出せ、さもなくば邑ごと打ち払うと脅してきたのです」

 楊戩の口ぶりから、出奔したとはいえ今もまだ邑との連絡や関係はあり、邑の者も楊戩をその魂まで穢れた悪人であるとは思っていないことを察した。



 湯が一椀ずつ差し出された。妲己が気を効かせたのだろう。呂尚は自分の前にそれがあることと、つい楊戩の抱える問題について考えてしまっていることに、同時に気付いた。

 諦めに似た色のため息を流し、ついでそれを言葉にした。

「では、差し出せばよろしかろう」

 なんと、と楊戩が驚きの声を上げる。

「邑の皆の暮らしと引き換えにするなら、この命は惜しくない、と思うしかないのか——」

「そうは言っていない」

 分からぬ、という具合に眉を険しく寄せる楊戩に、呂尚は淡々と説く。

「あなたである必要はない。病で死んだ者などにあなたのその衣を着せ、これが楊戩であるとして役人に引き渡せばよい。邑の誰に問い合わせても、たしかにこの面は、天下に仇なす不届き者の楊戩に間違いない、と言わせればよいだけのこと」

 画期的な着想とは言えない。どちらかといえば、馬鹿馬鹿しい策である。だが、もともと呂尚には楊戩を助ける理由が薄いのだから、必死で考えてやっただけましというものである。そのことを、正直に口に出した。


「おれは、あなたを助けるだけの理由を持たない。なぜなら、あなたが役人に追われているのは、あなたが鹿台のことに背き、先祖の祀りを絶やして出奔したからではないからだ」

「どういうことでしょう」

「そこまであなたへの追求が厳しくなったのは、あなたが役人を何人も殺し、その持ち物を奪うからです」

 おなじ、血を扱う仕事。その臭いが、楊戩から立ち上っている。しかし、呂尚のそれは人の糧となり、楊戩のそれは糧で育てたいのちを奪うときのものである。殺したらただ路傍に打ち捨てるだけ。全くもって無意味である。

「嫌なことを言うと思うだろうが、あなたは自分をして自分を追わしめている」

 今の言葉で言うなら、自業自得というところであろう。それに、とさらに呂尚の早口が続く。


「あなたは鹿台のことや商王にたいしての反抗を示すため役人を襲っているつもりなのだろうが、実際は、何にもならぬと知りながら、ただ人を襲っていたずらに殺めているばかりではないのか」

「そうは言っても、では、どうすればいいと」

 怒りか、やり切れなさか。あるいは、呂尚の言うことがあまりにも正論だからか。楊戩はぶるぶると震え、腰の剣が心細そうに鳴っている。


「かといって、あなた一個のいのちが損なわれることも、あってはならない。存えさせることは恥ずかしくない。こんな世だ、あなたと歳が同じくらいの者でも、病で死んでしまった者など、いくらでもいましょう。その者のからだを借り、あなたは生きればよい。邑の者も、力を貸してくれることでしょう。役人に追われ、いのちを狙われることがなくなったら、役人を追い、いのちを狙うことをやめることです。そうすれば、あなたは救われる」

 これが、さきほど考えた短絡的な答えの、その奥にあるものである。


 楊戩は重々しく礼を示し、立ち去った。

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