哪吒という少年

 藁をたいして被らずに眠ったはずが、月明かりに目を開いたとき、深くかかっていた。たぶん、木板の隙間から漏れてくる月の光に寝息を溶かしている妲己が、かけてくれたのだろう。

 この季節、夜になると冷える。呂尚は妲己が自分にそうしてくれたように藁を深くかけてやり、作業場へと向かった。

 昼間、運び込まれた獣である。それを代金——この時代、鋳造された貨幣はまだなく、宝貝タカラガイ、とりわけキイロダカラという種の貝殻をそれとしていた——と引き換えて、夜、皮を剥ぎ脈を切り、腑を外して吊るして血を流す。血溜まりは裏手の流れに繋がっており、一晩そうしておけば朝には血抜きが終わっている。


 血というのは不思議なもので、それを失えばいのちあるものはたちどころに死ぬくせに、死した肉にいつまでも血を留めておけば、腐るのだ。だから血抜きが要るわけであるが、呂尚はすっかり手慣れたその作業のあいだも、考えている。


 ——国も、そうなのだろうか。国にとっての血とは?


 分かりそうで、分からない。なんとなく、言わんとしていることは筆者にも察することができるが、そこまでである。


 血抜きのために吊るし終わると、昨夜からぶら下げていたものを切り分ける作業に入る。

 かたちからして豚か猪であろうが、豚というものはそもそも猪を家畜化してできたものであって、紀元前一万年ごろのものという世界最古の骨がまさにこの中国大陸において発掘されているから当然に呂尚の時代にも豚はあったわけで、だから、豚であるかもしれない。


 牛などは一つの味でしかないが、豚はそのうちに五十の味を含む。などと古代ローマのさる皇帝に絶賛されたという豚の肉を、器用に骨から外してゆく。

 燻すか天日で干せば日持ちがするが、生のものを求める人もいて、朝、妲己が小屋の前に並べて売れば結構な宝貝収入や、物々交換として十分な菜や魚などが得られる。


 それも、呂尚は不思議がった。いや、面白がった。これは、あるとき妲己に向かってはっきりと言葉にして問うたことである。



「貝殻は貝殻であるはずなのに、なぜ、これが肉になったり、肉がこれになったりするのであろうな」

「また、尚兄様。そのようなむずかしいこと、わたしに分かるはずがないでしょうに」

 それは、呂尚にも分かっている。しかし、問いかけをやめない。妲己から回答を得ようとしているのではなく、ことばを発し、それを受けた人がまた言葉を返すというやり取りを楽しんでいるのだ、ということに妲己はいつの時かに気付いたから、にこにこ笑っている。


「そうだな。しかし、不思議ではないか。貝など、海でも川でもどこにでも転がっている。それが、この貝にかぎり、肉と同じ値打ちがあると誰もが思い、疑わない」

 さらに、呂尚は語る。

「それだけではない。おれやお前の纏うこの麻も、家も、奴婢でさえも、すべてがこの貝で購える。そして、さらに不思議なのは、貝一つか二つで得た肉を、おれが切り分け、お前が店に運んで卸したり、そこで売ったりすることで、五にも十にもなる」

 それがなぜか分かるか、と呂尚が片眉を上げて言う。この表情をするとき、たった今そのひとつの回答を得たのだということを妲己は知っているから、はじめて、

「どうして?おしえて、兄様」

 と質問を返し、唇の桜桃をさらに色づかせる。


「一のタカラガイで得た獣は、一貨でしかない。だが、肉となるまでに、それを切り分けるという、おれの働きが入っている。すなわち、貨というのは、目に見え、手で触れられぬもの、そう、たとえば、肉を切るとう捌きや人夫が土を担ぐその行い、職人が籠を編むその手先の技にも存在するのだ。だから、おれたちは獣を仕入れたときに支払った貨よりも多くの貨を得、次の獣を仕入れるほか、自分たちが口にするものも得ることができるのだ」

 妲己は、目に見えぬものにも価値が付くという教えに目を丸くしたが、たしかにそうだと納得し、喜んだ。

 妲己の場合、呂尚がこの会話そのものを楽しむのと同じように、呂尚が何かについて得意げになって話しているのを見るのが好きなのだろう。



 そういうことも、なんとなく思い出した。

 呂尚は、自分のこころか、魂のどこかが壊れているのではないかと時折思う。五年前に目の当たりにした人の為すうちで最も酷く、最も愚かと言ってもいい行いを目の当たりにしたからだ。

 しかし、とさらに彼は思う。ほんとうに、それだけかと。

 そのことばかりをいつまで経っても思い出し、なぜなのか、どうしてなのか、とものの理屈ばかりを考える己のこころ自身が、こころと魂に亀裂を走らせ、壊そうとしているのではないだろうか。


 しかし、妲己があのときどう言った、とか、妲己がきょうはこんな話をした、とかいうことを思い返せば、その笑う顔がいつもそこにあり、我が知る人が健康で、商王のような振る舞いをせずとも十分なものを得、幸福でいることを思える。


 ——そのことを喜べるのだから、おれはまだ何ともない。


 その結論に至るための思考であり、自分がまだにんげんであることを確認するための時間である。


 このときの彼を知っているある人物は、のちにこう回想する。

「呂丞相は、昔はろくな身分でもなく、日がな一日鬱々としていた。それほど徳人ではなかったが、優しいところがあったさ。それに、ふつうの人が知らぬようなことを多く知り、ふつうの人が考えぬことばかり考えていたなあ。まあ、良くも悪くも、あの人は何も変わっていないのさ」

 と。



 とにかく、いつからかそういう名を持つようになった、夜という呂尚の時間は、こうして流れてゆく。

 特に夜にものを考えることが多いのは、肉のことをする作業の間、それは手先や体の運動に任せて行えるため、彼の頭にずっと回転する余地が生じるからである。


 ——が起きない。それが、夜というもののいいところだ。


 と、呂尚はおもっている。

 ところがこの夜、その変わったことが起きた。

 呂尚が血にまみれながら作業をしているその小屋の戸を、大きく叩いて訪う者があった。


 訝しんで様子を伺っていると、

「呂アニキ。いるんだろ。俺だ。俺だよ」

 その声に覚えがあったので戸を開いてやると、やはり顔見知りの哪吒なたであった。


「舟渡しの哪吒か。こんな夜更けに、何だ」

 呂尚の声は、いつもどおりぼんやりしている。それを聞いて、哪吒は心底安堵したようなため息をつき、

「ああ、よかった。いつも釣りをしているあんたに声をかけ、あんたもまた俺に応えてくれていた縁だ。どうか、あんたの知恵を貸してくれ」

 とまくし立てた。


「一体、どうしたんだ」

「今朝、お袋が倒れた。いや、粥をすするくらいのことはできるんだが、どうすりゃいいのか分からない。街の、占卜うらないをよくする爺に見てもらったら、月竜山にある寿仙草という草の根を煎じて飲ませる以外にない、と言われた」

 月竜山というのも寿仙草というのも、呂尚も聞いたことのない名詞であった。

「まず、その月竜山ってのがどこにあるのか分からねえ。それに、行き着いたってかんじんの寿仙草がどんな色のどんな草なのかも知らねえ。だから、仕方なくこの時間まで闇雲に河原や野っ原を駆け回って珍しい草がねえか探してたんだ。あんたがいつも竿を出しているところに差し掛かり、物知りのあんたなら何か知ってるんじゃねえかと」

 呂尚はすこし目を伏せて首を振り、あいにくだが、とだけ言って言葉を切った。


「……そうか。悪かったな、こんな夜更けに訪ねたことを許しておくれ」

 残念そうに立ち去る哪吒を、ふと思いついたことがあって呼び止めた。


「待て。うらない爺は、こう言っていなかったか」

 哪吒が、訝しい顔を月明かりに浮かべる。

「山も草も、お主自身で探し当てねばならぬ。さもなくば、母親はこのまま命を落とすだろう。すべて、天数うんめいなのだ」

「すげえな、兄哥あにき。なんで、爺さんが言ったことをそのまま言い当てられるんだ」

 かんたんさ、と呂尚はにぶく笑った。


「べつに、知っていたわけでもないし、天の定めを読んだわけでもない。だが、爺はできもせぬ占卜で人から貨や糧を得ていて、お前に伝えたのも天の定めでも神の声でもなんでもない、でまかせなんだということは分かる」

「いったい、どうして。評判の爺じゃねえか」

「では、哪吒。おれも、今から占卜の道に入ることとする」


 呂尚は血に汚れた作業着の袖に両手を隠し、なにやらむにゃむにゃと呪文のようなものを唱え、すこししたのち、

「哪吒。お前は、人の言うことを聞かないときがあるな」

 と言った。さらに、

「ふむ。しかし、ふだんは気勢も充溢し、粗暴なような振る舞いではあるが、それでいて存外よく気が付くところがある。そう言われたこともあるだろう」

 と付け加えた。哪吒は目を輝かせ、

「やっぱり、あんた、只者じゃねえとおもっていたが、天の定めを読むことができるんだな。そうだ、あんたの言うとおりだ」

 と喜んだ。

 その様子を見て、呂尚はめずらしく声に出して笑った。


「違う違う、そうではない」

「じゃあ、どうして」

「だれにでも当てはまることしか言っていないからだ。人の言うことを聞かないときがある、というのは当たっていただろう。考えてもみろ。そうでない者が、果たしているか?」

 少し首を傾げ、あっと哪吒が声を上げる。


「人の言うことを全て聞き入れ、人の言う通りにしかせぬ者。あるいは、人の言うことを産まれてから一度も聞き入れたことのない者。そのような者が、いると思うか?この天と地の狭間に生きるあらゆる人が、人の言うことを聞かないことがある人、ではないのか」

 それに、と呂尚はいつもの癖で、にわかに早口になりだした。得意になっている、と言えば彼のために良くないかもしれぬか、まあいいだろう。


「それに、お前は舟渡しをしている。棹で水底を突いて進むだけではなかろう。おれはよく知らぬが、おそらく、棹を操りつつ流れを見、その速いところや深いところを避け、舟がひっくり返ったり流されたりせぬよう、注意深くせねばならぬはず。だから、お前がいくら乱暴な言葉遣いをして、喧嘩も強いといっても、そういう部分があるのは簡単に思いつくわけだ」

「そ、それが」

「占卜など、そのようなものであろう。おおかた、爺は、にわかに病んだというお前の母親について、手立てを思い付かなかったのだろう」

「こ、こうしちゃいられない。あの爺、打ち殺してやる」

 待て、と呂尚は制する。


「それをして、何になる。自分の腹立ちをおさめるために爺を殺すより、どうだ、自分の頭と体を使って母親を助ける方法がないか、今一度考えてみないか」

 哪吒は、途方に暮れたように目を泳がせた。それを見て呂尚は、おれも一緒に考えてやる、と眉を下げ、しばらく黙った。


「哪吒。おれは今、ちょうど、肉を切り分けていた。それを母親に食わせてはどうか」

 と、毎日渡しをしている川で遊ぶ魚のように目を泳がせたままの哪吒に向けて提案した。

「思えば、ずっと、お前の母は粥ばかりを食らっていたのだろう。多くのものをお前に与え、自らは少ししか求めぬ。そうではなかったか」

「それは、そうだ」

「食わねば、人は死ぬ。お前の母は、呪いでも病でもなく、ただお前に多くを与え続けてきたがため、弱っているのだ」

「そんな、それじゃあ」

 俺のせいで。哪吒は、月明かりに涙を浮かべた。母親が痩せているのは昔からだから、まさか倒れるほどに弱っているとは思っておらず、無邪気に毎日渡しの仕事に出ていた自分を恥じた。

「己を責めるのは、いつでもできる。それは、母がほんとうに死んでからにすることだ。今、お前がすべきは、母にものを食わせてやることだ」

「だけど、貨がねえ。なにかと引き換えようにも、俺は舟渡しだ。何も待ち合わせがねえ。親父は王が作るっていう鹿台とかいう宮殿の工事に行ったっきり、どうしたのかも分からねえ」

 それを聞いて、呂尚は眉をひそめた。

 また、商王である。


「おれが切り分けた肉を、お前に与える。貨はいらぬ。貨と引き換えにならぬが、そこにあるからだ。お前の気がそれでは済まぬと言うなら、どうだ、お前の母が元気になった暁には、三度まで、おれに魚のよく集まる場所を教え、そこへ舟を渡すことで引き換えるのは」

 肉という給付の対価として、役務の提供を求めた。現代風に言えば、そういうことだろう。

 哪吒は一も二もなく合意を示し、さっそく呂尚が差し出した肉を手にする。

「さあ、これが寿仙草となるかどうか。お前の母親が良くなることを願うのみだ」

 哪吒は笑ってそれを受け取り、家へと駆け戻って行った。

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