西の男

申公豹しんこうひょうと申します」

 と、男は飄々とした声色で名乗った。腰にある湾曲した剣が、目につく。

「李靖どのとは、私のこの愛用の剣が欠けてしまったのを直してもらった縁でしてね。いや、こちらでは、なかなかにこの剣を見てくれる人がおらなんだもので」

「珍しい剣ですな、申公豹どの。西域のものですか」

「ははっ、さすが、呂尚どのだ。よくご存知でおられる」

 この時代、すでに東西の交易の道というものはあり、盛んに文物のやり取りがされていたから、呂尚にも申公豹のいでたちや剣が西域のものであるということくらいは分かる。


「この申公豹どのは、こちらの物を西へ運び、西からまた珍しいものをこちらに運び、としてこれまで過ごしてこられたとのこと。聞けば、遥か東は斉の海の魚まで手にしたことがあるとか」

 なるほど、と呂尚は思った。この人物が協力してくれれば、諸国との連携もしやすくなるかもしれない。

「李靖どのには、恩がある。だから、どうしてもあなたに会ってもらいたいと言うのを、断れなかった」

 そうでなければ、断っていたということである。呂尚は苦笑し、思うところを述べた。

けい国。斉国。宗。呉、越、楚。それらに出向き、各地の公と話をすることができるか」

 できなければ、呂尚の方にも用はない。このめずらしい衣装の旅人と談笑するほど、暇ではないのだ。ふと思えば、この居館に帰ってきたのも五日ぶりだし、詰め切りになっていた五日の間、三日しか眠っていない。


「この申公豹、南は崑崙こんろん、北は凍った土の名もなき土地。東は斉どころか遼東を越えてさらに東、黒竜江なる大河のある地まで。西は砂漠の遥か向こう、ふたたび山が大地を遮る地まで。珍しきものあるところ、行けぬ場所はありませんな」

「ほう、それは頼もしい。できるのか」

「しかし、あちらこちらの公にお会いし、お話をするというのは、いささかどうも」

 幾つなのだろう、とまた呂尚は思った。それほどまでに旅を重ねているのであれば、そのぶん歳を重ねているということになる。じっさい、見ようによっては老人のようにも見える。しかし、同時に、哪吒や姫発よりは歳長けている程度にも見える。


「それはすなわち、周公さまの遣いとして、各地に赴くわけでしょう。それでは、つまらないなあ」

「なにが、望みだ」

 地位や褒賞ではない。そういうもので転ぶ方が、よほど扱いやすい。呂尚はこのところの経験で、そう確信している。これは無理か、と思った。

「珍しいものを見、それを運び、まだそのようなものが天地にあると知らぬ人に見せる。その驚きが、生きがいなのですよ」

 からからと笑う。妙な男である。西域特有の気風なのか、この男が単に変人であるのか。


「だから、周公のために働くというのは、いかにもつまらない。あなたのためにでも同じです、呂尚どの。私は、驚きたい。驚かせたい。ああ、何か面白いことはないかなあ」

「——もういい。わざわざ訪ねてくれて、ありがとう」

「いいえ。あなたを知ることができたのは、良かった」

「気休めでも、有難いものだ」

 ぴん、と申公豹は人差し指を立てた。自然、呂尚の眼はそこにゆく。

「なにせ、天下を残らずほしいままにし、その兵の多いこと、強いことこの上なしという商に、喧嘩をけしかけるような人だ。あなたのような人を珍しがらずして、どうする」

 呂尚は、ふだん細いはずの目を見開いた。商に対しての宣戦布告は、姫昌の名義である。そして諸氏の心をひとつにするための旗頭として、姫発を立てている。申から拾い上げられてこそこそと過ごしている自分がその糸を引いているなどと、絶対に考えつかぬことだ。

 李靖が話した可能性もないではないが、寡黙で言葉数の少ない李靖が軽はずみにこのような旅人に打ち明けるはずはない。


「いや、なに。宗や韓の土地の人々など、その話で持ちきりですぞ」

 呂尚の心を読んだようなことを言う。それを聞いて、なるほど、と思った。宗や韓というのは商に従属的で、おそらく、商側からの情報によって今回のことの首謀者として呂尚の名が挙がっているのだろう。黄父子あたりがもたらした情報であろう。


 こちら側からだけでは見えぬものもあるものだ、と呂尚は単純に感心した。

「あり得ない。そう、誰もが噂しています。大商に刃を向けて、無事でいられるわけがないと」

「そうだろうな」

 呂尚は、無表情である。実際、そうなのだ。

「しかし」

 とこのもう一方の変わり者は言う。

「あり得ないことを、いかにしてあり得るようにするか。それには、何が足りないのか。何が余計なのか。それを知れば、あるいは」

「天下の人がみな、あなたのような人であれば、鹿台を造ると商王が呼ばわっても、見向く人はいなかったでしょうなあ」

「そうかもしれん。しかし、人が皆、そうだとは限らない」

「実際、私が見てきた多くの人は、誰もが、自分で考えるということをせぬものでした。それが、当たり前なのです。考えようにも、なにを考えてよいよかすら分からない。天下の人などというのは、そんなものなのかもしれませんなあ」

「ならば」

 呂尚の言葉が、速くなる。ずっと黙ってやりとりを聞いている李靖は、呂尚の舌が勢いに乗るとき、普段のっそりとした容貌に隠している鋭く、熱いものが顔を覗かせているのだということを知っているから、知らず、少し拳を握りしめていた。

「考えることのできる者が、それをしてやればよい。あらゆる人のためになることを考えるのだ。それこそ、国。それをしてはじめて、国。奪うのではない。人が何を欲しているのかを考え、あれか、これか、それともこれか、と与え続けるために、国というものがある。そうでなければ、国などあるだけ邪魔だ」

「呂尚どのは、そのような国が、ほんとうにできると?」

「分からぬ。だが、それこそが国だと、そうとのみ思っている」

「そうするためには何をすればよいのか、あなたは命を削ってでも考え続けるのでしょうな」

「そうかもしれん」

 また、申公豹が乾いた笑い声を立てた。まだ肌に受けたことのない西域の風というのも、このようなものなのだろうかと呂尚は思った。


「周のために働くのは嫌です。あなたのために働くのも、同じだ。しかし、あなたのことは珍しいと思う」

 呂尚は、次の言葉を待った。言い当てろと言われれば当てられるが、申公豹の言葉でそれを聞きたかった。

「私は、珍しいものを知り、まだそれを知らぬ人に伝えたい。それをするためになら、どこにでもゆける。幸い、諸国の王公のだいたいには顔が効く」

「——東西の珍品以外にも、運ぶものがあるようだな」

 呂尚が言うと、申公豹は目を丸くした。

「その剣も、そのために欠けたのだろう」

 申公豹はもともと、諸国を渡り歩きながら情報も売り歩いている。そうすると、自然、各地の公のそば近くにまで行く機会もある。あれが知りたい、これが見たい、と言われれば、叶えてきたのだろう。

 その中には、たぶん、剣が欠けるような暗いものも。

 飄々としているがどこか底知れず、不気味である。呂尚は、申公豹のことをそう見立てた。どうやら、当たっているらしい。

「これは。さすがに呂尚どのだ」

 何、とはお互いに言わない。だが、申公豹の隙のない立ち姿からも、そのことが伝わっている。


「ただし」

 申公豹は、付け加えた。

「商のことは、ほかの旅人でも知り得るようなことしか分からないと思うのです。商王は鹿台に引きこもったきり。人の話を聞くなどということに、全く価値を感じない。それよりも、女。酒。音楽。あとは自分の興味の向いたもの。あちらから欲せぬかぎり、入り込むことはできません。それだけは、含み置いてください」

「わかった」

 ただ、と申公豹は付け加える。

「商王が、人を寄せ付けぬのではないのです。そのそばにある。聞仲ぶんちゅう。あれが、商の支配を受けるあちこちに目を光らせ、万からなる軍を従え、目を光らせているのです。あの軍の全てを握り、政にも大きな力を持つ老雄が朝歌を離れぬ限り、入ることも難しい。そういう意味です」

 呂尚も、商の大師(文武の最高権力者で、王を補佐する)である聞仲の半ば伝説になったような戦の話など、いくつか聞いたことがある。

 そのような男が常に朝歌に張り付いているのなら、なるほど、申公豹が避けようとするのも無理はない。


 あとは、どのようにして連絡を取るだとか、そういう実務の話になった。得体の知れぬ男ではあるが、商を打ち倒すと天下に明言した周の、その立役者を珍しがっているのは確かである。

 褒賞でも地位でもない。だが、自分がこれと定めたものなら、命とでも引き換えられる。そういう類の男であるらしい。


 よい人を引き合わせてくれた、と礼を述べると李靖は嬉しそうに帰っていった。

 諸国のことは、申公豹をあてにして良さそうである。たぶん、彼は一人ではなく、おなじように各地を渡って売り買いをして回る仲間があり、それは組織と言ってよいものだ。周や呂尚のために働くのはいやだなどと言いながら、たぶん、彼は諸国を糾合する強力な起点になる。

 問題は、商である。紂王の動向や、商の政のことなどを知らぬことには作戦も何もあったものではないが、紂王は自分の興味の向くものしか近付けず、広く人を集めて話を聞くというようなことをまるでせぬらしい。


 どうしても、知りたい。

 考えた。

 考えて、その方策をいくつか思い付いた。たとえば、商王のそばにあって情報をもたらす者を置く方法。たとえば、申公豹が今だと朝歌に入れるよう、聞仲を朝歌から引き離す方法。しかし、思い付きはしても、それはとても実行できるようなものではなかった。

「あら。お客さまは、もうお帰りに?」

 門のところでの立ち話であったが、館の中に招き入れるものと思っていたらしい。妲己が、様子を見に来た。ちらちらと館内を気にしているようだから、もしかしたら客人に差し出すために湯を沸かし、火をかけたままにしているのかもしれない。

「ああ。何ということのない客であった」

 呂尚は困ったように笑い、門を背にした。

「せっかく、湯を沸かしたのです。兄様、召し上がる?」

「そうしようか」

 夕餉には、まだ間がある。姫昌が使用人を付けてくれたから、このところ妲己は調理をしていない。ふとそう思うと、なぜか申にいた頃の粗末な料理の味が口に蘇った。

「今日は、お前の作ったものが食いたいな」

「あら。べつに、構いませんけど」

「魚でも、釣って来ようか」

「尚兄様に任せていたら、明日になってしまうわ。さっき、董と糜が肉や菜を持ってきていたから、それを使いましょう」

 妲己は、二人の使用人ともうまくやっている。使用人たちも気さくで細かな気配りのできる彼女のところに付いたことを幸運と思っているようだ。


 彼女の視線の先には、豊邑の春が散らばっている。

「蝶が」

 ひらひらと、蝶が風に流れている。それを目にして微笑んだ。思えば、幼い頃から肉屋の娘として忌まれ、ろくに同年代の子供と遊ぶこともなく、呂尚と一緒に暮らすようになったらなったで、その身の回りの世話や調理をするばかりで一日を終えていた。

 おおよそ、人としての喜びらしいものを与えてやれなかったのだ、と呂尚は彼女の笑みを見て思う。豊邑に来て、よかったのかもしれない。

 不自由なく、春が来たと笑い、蝶に指を伸ばし、取り逃してまた笑う。経験のないことで忙しく過ごしていても、妲己がそうしているのを見れば心が擦り減らずに済みそうだった。


「ああ、申でも見る鳥。こちらにも、変わらずいるのね」

 萌黄の色の体毛で覆われた、小さな鳥。それを枝に認め、妲己は嬉しそうにした。この枝は、桃だろう。

 もうすぐ、咲く。

 西の山を縁取る空は、この季節らしい重い雲に覆われていた。

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