曇天の春

 冬の豊邑は、申に比べて寒かった。そのことをゆっくりと感じていられぬほど、忙しくなった。呂尚がまず手を付けたのは、対商について賛同的でない、ゆくゆくあちら側に付くと思われる者の洗い出しである。


 あの衆合の場で目に止まった顔。その者らを徹底的に調べ、罪を鳴らしては斬った。多少酷くはあるが、もし、いざ戦いになってから彼らが商に付いたり、こそこそとこちらの情報を流したり撹乱を謀ってきたときのことを思えば、何ほどのこともなかった。

 情報を集めたり、身辺を探らせたりするのには、李靖が役に立った。市の出る大通りの建物を一棟買い取り、そこで鍛冶や雑貨を扱いはじめたのだ。彼の行う鍛治というのは後代にくらべてもより専門的技術で、人手も必要で、国家ぐるみで行われることがほとんどであった。だから、鍛治をするための職人を多く雇い入れ、その者らが出入りしても不自然ではないし、また、銅の原料となる鉱石は中華の地域では産出せず、もっと南の、この時代の感覚で言えば異界とも言うべき地域に依るから、それを求めるために人が遠くにまで出たり、遠くからの人が入り込んだりしても不思議でない。

 鍛治をする者が国家のためにでなく、大衆のためにその役務を提供するということ自体が珍しいから、自然、多くの人が集まってくる。

 職人として雇った者はもちろん、呂尚の意を受けて彼の欲しい情報を得るために行動する諜者である。それらの者を中心に、ほかに出入りする人に宝貝や多くの食い物などを与え、噂話を集めたり、特定の人物に張り付かせたりした。雑貨を目当てには民が、鍛冶の方には文武の官がやって来たから、あらゆる方面からの情報を集めることができた。

 呂尚の献策を姫昌はすぐに取り入れ、これが実現した。


 また、軍備の方も増強を進めている。統治の及ぶ邑から若い者を組織し、武器の扱いを教えた。その邑をもともと治める豪族のうち、武器の扱いが得意な者がおらぬときは、豊邑から人を派遣した。

 若者たちは平時は農耕に従事するが、いざとなれば農具を剣や槍に持ち替え、豊邑に集結する。その間、農耕が止まらぬよう、どの邑でも組を三つ作り、一つの組が戦に出ている間は隣の組の者が土を耕し、得たもののうち税を引いた手残り分は自分のものとできるようにした。また、戦に出ている組の者自身の食料はもちろん周が負担するほか、邑に残ったその家族の分まで官費で賄うことを約束した。

 そうすることで、兵になりたいと志願する者が各邑の役所に殺到するようになり、かつ、戦で土が放置されて痩せてしまうこともない。


 当時、後代のように中央集権制でも封建制でもない。だから、周に参画する諸豪族のうち、おもに東寄りに位置する邑や(邑のように人口がなく、城壁を持たない集落)の者が主にそれを担った。周が商を打ち倒した際には、今の商が誇るような繁栄も周のものになるわけで、それはすなわち自分のものになるということである。当時の国家体制だからこそ、彼らはこぞってこの事業に参加した。

 そもそも族、という字は、この時代の甲骨文字を見れば分かりやすいが、立てられた旗と矢の図柄からなる。すなわち、族という語自体が軍事組織を意味するのである。商があちこちの異民族の侵攻を受けてきた歴史が、この字があらわす戦闘組織を産んだ。


 戦いでは、すでに述べたように多くの費えを要する。税負担を強いれば簡単であるが、それをより軽くするため、西の山地に位置する豪族には、粟の増産や獣の狩猟、木の伐採などを命じ、この事業の強力な後援とした。

 東は軍事、西は生産、と役割を与えたのだ。それは、仮想的を商と定めきっていることをあらわす。国家の直轄軍というのはたとえば戦国時代や三国時代などに比べれば遥かに少ない。それゆえ、想定戦闘域に近い地域の豪族に召集をかけなければならず、この選択は合理的である。


 各地の役所や豪族からおおよその年齢別、性別人口を聞き出し、動員できる人数を割り出す。戸籍など無い時代であるから、大変な労力であった。それによると、兵となりうる人全てで二十万、三組制であることを考慮した通常動員兵力が七万弱ということになった。数値の精密度は低いかもしれぬが、総動員すれば、まあ戦えなくはない、と呂尚は踏んだ。

 しかし、これほどまでに、人が多いとは。商にはもっと多くの豪族がいる。戦いのできぬ老人や女や子供を合わせれば、じつはこの天地は人で埋め尽くされているのではないか。自分で計算をしておきながら、呂尚は驚いている。


 また、豊邑においては姫発を総帥とする軍をあらたに編成し、そこに哪吒と楊戩も加えた。二人は武器の扱いがきわめて上手いから、軍の将となることもできるかもしれず、今のところもともとの兵や武人たちも二人の腕を認めているようである。

 武人のうち腕自慢の者が、こんな小僧、と侮って哪吒に勝負を挑み、槍に見立てた木の棒で立てなくなるほどに打ち据えられた。そういうことが何度か続くうち、認められたものらしい。楊戩においては物腰が丁寧であるぶん思考が深く、剣を取る以外にも盤上で石を軍に見立てた戦をさせても誰にも負けなかった。また、申近くにいた頃の人気と人脈もあり、彼を慕う者がわざわざやってきたりして、その人気がまた他の者を呼ぶという具合であった。


 糧秣。税。軍編成。考えなければならないことが、多すぎた。肉屋をしていたのでは全く考えることがなかったであろう様々なことを、冬の間考え続けた。

 諸国に遣いを発し、ともに商を打ち払わんと持ちかけてもいたが、同心してもよいという返事がちらほらもたらされている。それらと連携をするには、どうすればよいのか。


 考えなければならないことばかりであるが、しかし、順調であった。冬が終わって鳥が鳴きはじめる頃には、国内の粛正もひと段落し、各地の兵もどうにか様になってきていた。

 しかし、何をするにしても、肝心の商の情報が足りない。旅人がもたらす噂によると、商は商で周の叛乱に怒り狂い、自慢の戦車隊を再編成し、あちこちの原野で調練を繰り返しているという。

 聞くところによると、その兵力、じつに三十万。ほんとうかどうかは、分からない。しかし、各地から人を徴発すれば無理な数字ではないようにも思える。豪族が渋れば、軍を差し向ける格好を見せればよいのだ。なにより、商は今の言葉で言う神権政治を取っている。

 ——う、軍発し、周討つべきか。

 というような占卜をして骨を火にくべれば、かならず吉兆を示す縦のひび割れができるようになっている(この頃になると、占いに使う骨や甲羅の裏側にあらかじめ彫り込みを入れてから火にくべることで、ひび割れの形を恣意的に操作する知恵を彼らは得ていた)のだ。それに背くというのは、たとえば頭痛や虫歯、飢饉や災害などの祟りを意味するから、豪族どもも商が神託を掲げて無茶を言いつけてきても、従わざるを得ない。


 仮に三十万であったとして、七万の周軍でどう立ち向かうのか。この周の地域以外の諸国の兵がどれほどになるかにもよるが、もしかすると、天下の兵を全て集めても、まだ商の兵の方が多いのかもしれないとも思える。

 情報が、足りない。李靖にそうさせたように、欲しい情報のもとへこちらの意を汲んだ人を送り込み、確かなことを知らねばならない。だが、それに適した人材がいない。


 今は、まずは諸国との連携を強めること。正確な兵力や、周への同調の具合など、疑わしいことも多い。中には、周に同心するふりをして寝首を掻こうとしてくるような国もあるかもしれない。


 そのようなことで悩んでいたところ、李靖が、ある人を連れてきた。その者は痩せ、日に焼けていて、ぱっと見ただけでは幾つなのか判別ができないような風貌であった。豊邑のはるか西に広がる砂漠の向こうの民が纏うような布を肩にかけているから、異民族であるとも思えた。

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