見送

 黄天化が、ついに抜剣した。父親のことなど、もう考えない。彼の職分からすれば当然である。

 姫昌か、姫発か。どちらに先にその剣を振り下ろすべきか、と一瞬思った。思って、その手がはたと止まった。


 喉元に、鋭い槍の穂先。控えていた哪吒が、黄天化の一瞬の隙を突いていた。同じように楊戩が、その剣を黄飛に向けている。


「斬りますか」

 ほんとうに、やる。楊戩のその淡々とした物言いは、朝歌で武人として鳴らしたこの親子を戦慄させるに十分であった。

「いや、やめておけ」

 呂尚が、ぼそりと言う。なにか声にしようとする黄天化を見ようともせず、姫発に、いかが致しましょう、としずかに問うた。

「黄飛、黄天化。その刃を振るいたくば、振るえ。その前に、お前たちの首が飛ぶ。そうでないならば、貴殿らを、今日限りで追放する。朝歌にでもどこにでも行け」

 宣戦布告。商王の命によって朝歌から送られているこの父子を勝手に追放したとあれば、それは商への敵対行動をはっきりと示すことになる。それを、あえてするという。ここで父子を殺し、その首を送り付けぬだけ、まだましである。


「天下に、商の非を鳴らす。心を同じくする者は、かならず多い。我らが、天下を平らに導かねばならんのだ。そうでなくては、我が子は何のために死んだと言うのか。ここにある全ての人の、知り人は。不当に奪われ、もう戻らぬ人は」

 熱狂。岐山の風など、もはや無い。

 それでも、心を同じくしない者。見渡すと、ちらほらそういう顔がある。それを、呂尚はひとりずつ、全て記憶した。


 熱狂に少し気圧されたような様子を必死に隠すためか、そんな呂尚を鋭く睨みつけた黄天化が袖を払い、黄飛が姫昌の方を向いて深々と一礼をしてそれに続く。


 荷物をまとめる間も黄天化は姫昌や姫昌への呪詛を喚き続けていたが、黄飛は静かであった。ただ、

「朝歌に立ち戻り、紂王さまと、聞大師ぶんたいし(商にあってその軍事および政治の最高位にある者)にこのことをお知らせするのだ。この天下にありながら商に刃を向けるなど、あってはならぬこと。それゆえ、正しい道でもってそれを立ち戻らせねばならん。紂王さまの旗を掲げ、商が誇る戦車隊と何万の兵を引き連れ、なにが道であるのか示すべきだ」

 と述べた。若く、血気盛んな天化は父親のそのような信念には興味がないらしく、斬り損ねた、斬り損ねたとしきりに嘆いた。

「しかし、天化よ。それをすれば、俺もお前も、今頃あの呂尚の取り巻きどもの刃にかけられ、生きてはいまい」

「父上。死など、何ほどのことがありましょう。あの呂尚です。あいつさえ殺しておけば」

「もう、よせ」

「しかし。朝歌の使いどもを殺したのは、あの呂尚の一党なのです。それは、紛れもないこと。ああ、あの夜、殺しておけば」


「しかし、殺さなかった」

 戸口の方で不意に声がしたので、父子は驚いて振り返った。

「——貴様」

 呂尚である。世間話でもしに来たような気軽さで、ひょっこり顔を覗かせている。本殿の方ではまだ喊声がしているから、抜け出して来たものらしい。

「あなた方は、私が申にいた頃からの、顔見知りだ。せめて、お見送りでも」

 どの口が、それを言うのか。天化などは怒りのあまり、言葉すらも失ってしまった。

「せっかくのお心遣いだが、無用に願う。我らは、追放されたのだ。急ぎ立ち戻り、商王にこのことを報せねばならん。それについて貴殿が見送りをするというのも、妙なことであろう」

 たしかに、と呂尚は考えるような素振りを見せた。それがまた天化を苛立たせた。

「あの夜、お前を斬っておくべきだったのだ。姫発を焚き付けたのは、お前であろう。そうでなければ、あの猫のようにおとなしい次男坊が、あれほどまでに変貌するものか」

「猫だと思っていたものが、虎であった。そういうところでしょうかな」

「商の使いを殺したのは、やはりお前だな。すべて、今日のため。役人を殺したとあっては、あの煮えきらぬ姫昌もさすがに腹を括るだろうからな。さらに息子を使うなど、よく考えたものだ」

「違いますな」

 呂尚はのっそりと笑っている。剣こそ佩いているが、その口は平時と同じく、紐で結えられている。

「今日のためではない」

 決起を目的としたのではないのであれば。

 その先にあるものといえば、商を倒すこと。そのことをのみ見ている、と伝えたつもりかもしれない。

「天化どの。あなたは、私を斬らなかった。人の子を切り刻んで羹に仕立てあげることも、それを啜る姫昌どのを見下ろして冷ややかに笑うことも、あなたは正しいとは思っていないからだ。だから、私を斬らなかった。違いますか」

「それは——」

 そうである。この世のどこに、それが正しいと考える者がいるのか。いるとするならば、そのような者は、きっと何かが狂っている。

「それを正しいと言う者があれば、私はそれを滅ぼすでしょう。あるいは、それを正しいと言う者によって、私が滅ぼされるかもしれない。天化どのは、そのどちらにもならなかった」

 何が言いたいのだ、と天化の眉がさらに険しくなった。

「だから、今も、あなたは私を斬らない。私も、この二本の剣を抜かない。あなたがあの行いを正しいと言い、私がそれは間違っていると言えば、はじめてそこで私たちは剣を向け合うことになるのでしょう」

 共周りもなく、剣は紐で封印したまま。その気になればすぐにでもこの食わせ者を殺してしまえることに、天化は今ごろ気付いた。


「——お前の言うとおりだ」

 天化は、荷を背に負った。

「ただ、今は、だ。次に会うことがあれば、その首、刎ね飛ばしてやる」

 呂尚は一礼し、戸口から出てゆく天化を見送った。

「貴殿がここに来た意味を、よく考えろ。そう言いたいのだろう」

 さすが黄飛は話が早い、と呂尚は思った。目を細めて笑うことで、黄飛の言うことが当たっていると告げた。

「天化は、まだ若い。しかし、奴は、間違いなく天下に名を轟かせる武人になる。心しておかれよ、呂尚どの」

 ましてや、これから、天化のような男が求められるようになるのだ。

 そうさせたのは、呂尚である。


 呂尚は二人の背を見送ったあと、ふと天に眼をやった。

 明星が、ひとつあった。

 明るい。しかし、夜が来るのだ、と思った。

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