今が、そのとき

 その日が来た。豊邑の役人、武人の主だった者はもちろん、周の支配の及ぶあらゆる邑に詰めるそれらと、実際に邑々を支配する豪族、それに父老たちが集いきった。当時はのちの世のような封建制は薄く、まだ都市国家であった時代であるから、支配者層といえば土着の有力者であり、それぞれが独立性をある程度持ちつつ、周や商という大きな国に連合あるいは参画しているという格好で、たとえばこのときに集まった豪族のうち、豊邑よりもさらに北西の山地にある邑の土方どほうという豪族などは、その昔は周や商の支配を嫌い、戦いになったことがあるような連中である。

 のちの時代の皇帝が諸侯を召集するのとは違う。だから、誰もが、前例のない召集について何事であろうと疑問と憶測を交わし合っている。


 豊邑の宮殿はもちろん、大通りまでも人で埋め尽くされていて、それを見渡すように姫昌と姫発が並んだ。すこし、どよめきが上がった。


 その傍らには、呂尚。さらに背後には、黄父子。少しでも妙なことがあればただちに剣を抜くつもりなのか、強張った表情をしている。その他文武の官が並ぶと、姫発がさっと右手を挙げた。

 水を打ったようになった広場を、冬の風が通り過ぎる。それすら、人々から発せられる無言の熱気を避けて通るようである。


「近い者、遠い者、皆、煩わせて悪かった」

 あの大人しい姫発が、と彼を知る者ならば目を見張るだろう。それくらい、その声はよく透る。

「この場を設けたのは、他でもない。我が兄、姫考のことである」

 ここに集まっている者どもにすれば、周公のあとを継ぐのは聡明で頑健な姫考しかいないということで一致していた。豪族たちも、自分たちの統治する邑を悪くはせぬ姫昌を支持しているし、その子がまた賢明な統治者となるであろうという見込みがあるから、なお期待が高かった。

 その期待の後継者について、その弟が言を発する。それがどういうことなのか、なんとなく察する者もあったかもしれない。


「そして、商のこと。天下のことである」

 空気が、張り詰めている。山から吹き降りてくる風のためではない。

「我が兄、姫考は、知ってのとおり、とても頭のいい兄であった。体も大きく、強く、ゆくすえは父のあとに続いてかならず皆に安寧をもたらすはずであった」

 それが、死んだ。殺された。姫発は、そこで一度言葉を切り、人々の反応を見た。早口にならず、ゆったりと、子供に寝物語を聞かせるようにして語るとよい、と事前に呂尚に言われている。


「信じられぬ者も多かろうが、商王である紂に殺された」

 どういうことですか、と誰かが声を上げた。その方を見て、姫発がゆっくりと頷く。

「商王紂は、欲しいと思ったものをかならず我が物にしなければ済まぬらしい。珍しい宝が北にあればそれを得るため雪を掻き分けてでも人をやり、美しい女が東にあれば夫を殺してでも連れて来させる」

 そして、天下。天下の全てが己のものであると、いつしか錯覚をするようになった。

「いや、もしかすると、そう思いたいだけなのかもしれぬ。己の手の届かぬものなどないと。そう思いたいのだ。そして、己の持つものを奪われぬようにするための兵。剣。戦車にそれを曳く馬。それがあるため、また天下の者は奪われたことについて声を立てることもできぬ。その切っ先が、自分に向くことを恐れるからだ。紂とは、そういう王なのだ。そう、誰もが知るところであろう」

 黄天化がぴくりと動いたが、父親の黄飛に制止された。今この場で姫発を斬れば、ここに集まる全員を相手にしなければならぬようになり、そののちには周と商の戦となることが明らかであるからだ。


「そんな紂である。その才、天下第一とまで謳われた我が兄を欲しがらぬはずがない。しかし、我が兄は、父の身柄を人質に取られようと、ここに集う皆の、いや、すべての周の人のため、それを拒んだ」

 商王に仕えれば、信じられぬほどの褒賞を得られる。しかし、暴虐にも加担しなければならなくなる。天下の全てを奪う理不尽に。それを、姫考は断じて受け入れることができなかった。


「それゆえ、兄は死んだ。おそらく、この近くまで引き出されてきたのであろう。たぶん、ここより一日東のとうの邑まで。宿を取り、夜明け前にこの豊邑に向けて発したのち、渭水のほとりで。これにある呂尚が、その場まで出向いて見聞してくれた」

 やはりこいつが、という眼を黄天化が向けるが、呂尚はいつものとおり眠そうな目をしたままである。


「邑を出たばかりであるのに、煮炊きの跡があったそうだ。朝歌で用いられる土焼の欠片が、落ちていた」

 ほんとうかどうか、分からない。ほんとうなら、この場にいる者がそれが意味するところを知るには足る情報である。

「そして、斬り付けられ、全身を切り刻まれ、ばらばらになった肉を——」

 さすがに、言葉を詰まらせた。一同を、悲壮な空気が包んでいる。

「我が父は、そうして作られた羹を、飲み干したのだ。皆に血を流させたくないという一心で。自分さえ堪えれば、商のために血を流さずに済むと思って」

 だが、それは違う。商が理不尽に奪うのは、今に始まったことではない。その事実を、姫発は述べた。

「たとえば、鹿台。見たことのある者は少なかろうが、私は、その造営中、父や兄とともに朝歌を目指す船から見た。あのようなものが人の手で、と思うほどに大きく、遠くから見ただけでも何万という人が動き、土や木材を運んでいた」

 その全てが、死ぬまで働かされた。何か意味のある建物ではない。ただ、紂王とその何百という妾どもが遊び、眠るだけのものだ。版築はんちくという、木枠の中に泥を流し込み、それを突き固めて作るこの時代の城壁——驚くほど丈夫で、今なお殷墟には当時の城壁の一部が高さ七メートルほども残るところがあるという——をも備え、何から守るのかは分からぬが守りも万全である。

 版築による城壁は丈夫なぶん人手も必要で、それだけでも多くの人が携わり、使役され、使い捨てられるように死んだであろう。


「紂王が、商が、我らに何を与えたであろう。皆の知る人もまた、奪われてばかりではなかったか。決して奪われてはならぬものを、いつも、商はかならず奪うのだ」

 傍ら、やや後ろに影のように控えている呂尚を、ちらりと見た。呂尚は、しずかに頷いた。


「私は、許さぬ。我が兄が周公の子だからではない。ただ、兄は、私の憧れであった。それを奪われた一人の人として、私は、紂王を、商を、決して許さぬ」

 一同の中には、涙を流している者も多くある。姫考のことがあまりに酷いことと、やはり何かしら同じような思いをしてきた者が、それほどに多いということである。


「諸氏」

 と、姫昌が進み出た。召集は姫発の名義であったのに姫発からはただ兄が殺されたからそれを恨みに思う、ということしか述べられていない。続きを引き取ろうということであろう。


 姫発の名で召集をしたのも、呂尚の発案である。姫昌の名でそれをすれば各地にある商の手の者が、異心ありとしてすぐに朝歌に通報したであろう。また、黄親子に偽りの説明をして納得させる必要も生じ、手間が多い。

 その点、姫発の名なら。姫昌の子であるから応じぬわけはないであろうが、いったい何だろうと皆が首を傾げる。商の手の者も、こういうことがあった、という報せは送ったとて、そのために何万もの兵がただちに差し向けられるということにはなるまい。


 そして、姫発の言葉で語らせる。それも、大事である。姫発は、なにしろ若い。政や天下のことがどうこうと言わせたところで、説得力に欠ける。彼の口から出てこそ人の心に響くのは、思い、憧れていた兄を無惨に奪われた悲しみであろう。そしてそのみずみずしい怒り。それは、かならず集まった人々の心の色を、あかく染めるに違いない。そう考えたのだ。


「——諸氏。今、この周のみならず、天下には賊が蔓延り、民の暮らしを脅かしている」

 それは、紛れもない事実である。

「しかし、賊とは、母の胎から出たそのときから賊なのであろうか。私は、違うと思う」

 姫昌の声は姫発ほど響きはせぬが、そのぶん、積もった雪に滴が染みるようであった。

「彼らもまた、奪われたのであろう。それゆえ、奪うことなしに生きられぬようになったのだ。商のまつりごとは、人から、人として生きることすら奪うようになっている。私は、そう考えている」

 剣が鳴った。天化である。黄飛がさらに強く眼で制したため、抜き放たれることはなかった。

「私は、発の言ったとおり、子を奪われた。考は生きたまま切り刻まれ、羹にされた。それを飲み干した己を恥じるとともに、そうするほかなかったとも思った。しかし、一方で、思うのだ。果たして、私や発だけが特別かと。この天下に生きるあらゆる人が、我々と同じなのではないかと」


「お待ちくだされ」

 豊邑の臣の一人が、声をあげた。商の役人がやってきたとき、それに取り入ろうと必死になっていた輩である。

「何のお話か、この私にも明かされず。よりにもよって、このような下らぬことを。よいですか。商あっての我々なのですぞ。商が誤っているのではありません。商王は、天地そのもの。神の子なのです」

 まあ、この当時においてはふつうの感覚ではある。だから、誰も商の傍若無人な振る舞いにこれまで口や手を付けなかったのだ。


「それを、周公はお分かりでない。お子が死んだと、どうして分かるのです。お子は疑いが晴れるまで、朝歌におられるのではなかったのですか。ははあ、なるほど、このよそ者が——」

 呂尚を舐めるように睨み、さらに何か言おうとする。それを、姫発が手で制した。同じ手で、こちらに来いという仕草をする。


応干おうかん

 とその役人の名を呼び、姫昌が同じ壇上を薦める。

 おどおどしながら、応干は促されるとおりにする。

 抜剣一閃。

 応干の首が、飛んだ。


「この応干は周の民のためにありながら、商こそ天下と、我が息子の肉で作った羹を運び込み、それを啜る私を冷ややかに見下ろしていた商の者どもにおもねり、天下にはそれに相応しい王と、その国があってこそ、などと抜かした。それは、民のためにある官の言葉ではない。それゆえ、ここに誅した」

 温厚で通っていた姫昌の放つ凄まじい気と自分が死んだことすら分かっていないような応干の身体がどさりと倒れる様に、誰もが静まりかえった。


「血だ。この応干を、贄とする」

 この時代よりもさらに昔から、祭事のときにはかならず血贄を捧げる。ましてや、戦いのときにおいて。あわれ、応干は、周があらたな歩みをはじめることを天に申し届けるためにその血を噴き出させることになってしまった。

「そもそも、商が成ったとき、どうであった。夏の暴虐を許しておくべきでないという志によってではなかったか」

 今が、そのとき。

 姫昌が、しずかに言った。

「今が、そのとき」

 姫発が応じ、声を高くする。


 今が、そのとき。

 今が、そのとき。

 人々が、声を合わせた。それは集まり、さらに声を呼び、ほとんどの人が同じ声を発していた。

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