同じ夜

 姫昌は、姫発の名で人々を召集することに、異論を挟まなかった。

 姫発が、人を集める使いを出す許可を得るために姫昌の寝屋の扉を蹴破るように開いたときのことを描いておく。



 姫昌が申まで出向いて呂尚を見つけ、抱えるようにして士官を誘ったのは、やはり、彼の中に、明確な反商の心があったからである。


 天下の人々を誰彼構わず召し上げて死ぬまで使役して造られた鹿台なる宮殿。それを飾る無数の宝物。宝物を運ぶ人夫ももちろん無償で使役され、集合の期日に一日でも遅れたり運ぶ最中に宝物を毀損したりすれば問答無用で首を刎ねられる。

 はっきり言って、馬鹿げている。

 そして、自分のあとに続き、周を自分の代の何倍も良いものにしてゆくことを疑う者のなかった長子の姫考までも、あらぬ罪のために長く朝歌に置かれたままになっていた。


 天下のことを、どうにかしたい。そう、漠然と思っていた。それがために呂尚を迎えたわけであるが、その来着から間もなく、決断を迫られた。


 姫考のことについては、疑いが解けぬうちは、として身柄を預かっていたのではないのか。なぜ、全身を切り刻まれて羹にされなければならなかったのか。

 朝歌で殺して羹に仕立てたのであれば、豊邑に至るまでに腐る。姫考は、この近くまで、罪人のように引き出されて連れられ、あの役人どもによって殺されたのだ。

 天を引き落とし、地を叩き割ってもまだ足りぬほどの怒り。しかし、それを発することで、多くの血が流れるのではないか。そういう逡巡があった。

 自分は、周公なのだ。我が怒りよりも、まず民の安寧。

 今、自分さえ堪えれば、民は救われる。その思いで、あの羹を飲み干した。吐き気を催すものであったが、民のことを思えば何ということもなかった。


 誰もが、誰かの親であり、誰かの子なのだ。自分だけの気分で、国のことを決めてはならない。

 では、この怒りは。


 そういう父の気持ちを汲んだかどうかは分からぬが、頭はよいが大人しく内気であったはずの息子が、断りもなく押し入ってきて、目を血走らせて詰め寄るのには、さすがに驚いた。

 姫発が言う。

「父上は、許されざることを許し、受け入れてはならぬものを受け入れてしまわれるのか」

「——お前も、察していたか」

 羹のことを、である。

「父上。お答えください。人の上にあり、人を束ねて安寧を約束するはずの父上は、あの役人どもと同じように、許されざるを許し、受け入れてはならぬものを受け入れてしまわれるのか。それが、商のすることだからですか」

「お前に」

 分かるまい、と言いかけ、やめた。分かるからこそ、姫発はこうして凄まじい剣幕で詰め寄っているのだと思い直した。若いなりに、いろいろ考えている。そう思うと、嬉しくもある。いや、若いぶん、その純度は高いのかもしれない。


「民のことを、お考えでいらしたのですね。我々が商に剣を向ければ、民はどうなる、と」

「そのとおりだ。自分でも、分かっている。俺は、思い切りの悪い男であるらしい。情けないことにな」

「いえ。父上のそのお優しさは、天下の者で知らぬ者はありません。それがため、周の邑々は商のそれとは違い、作物もよく実り、人々はそれを喜んで暮らしていられるのです」

「彼らもまた、誰かの子。誰かの親。もし、その血を損じてしまえば。この天地の間は、悲しみで満ちてしまう」

「すでに、そうです。私は、歳が若い。私のような者が、政について知った口をきくなど、それこそ天下のためにならぬものです。しかし、違うと思います」

 この次男の言うことを、真摯に聴いてみよう、と姫昌は思った。居住まいを正し、聞かせてくれ、と穏やかに問う。


「父上がそれを許せば、天下のあらゆる人が、それを許さねばならぬようになるのです」

 なぜか声を上げそうになり、こらえた。

 どれだけ商が暴虐の限りを尽くしていたとしても、周公すらそれをがえんじ、受け入れておられる。もしあの羹が我が長男の肉でできているということが知れれば、人々は今度こそ、一切の不満すらも口にできぬようになってしまうのではないか。どれだけ人ならざる行いをしても、決して裁かれぬのだ。誰も、声を上げぬのだ。民に、そう知らしめることになるのではないか。


「許してはならぬのです。私は、許しません。己の怒りのためでも、父上の無念のためでもない。私は、この後の生を、私が長じ、老い、死してなお後の人のために使いたい」

 姫発が、涙をこらえている。瞬きひとつでもこぼれてしまいそうだから、決して瞬きをせぬように目を見開いている。それを見て、姫昌は自ら落涙した。

「お前を、泥にまみれたいばらの道を歩ませることになる」

「父上がそれをするなと仰っても、私は自らそこに飛び込みます」

「俺は、ずるい男だ。内心、商を許しておくことなどできるはずがないと、ずっと前から思っていた」

「だからこそ長年人を探し、申に呂尚なる賢人ありという噂を聴いたときは自ら飛び出して迎えにゆかれた」

 全て、商に服従して生き、それを全ての民に強いるのであれば、無用のことである。しかし、そうではない。

「思いながら、誰か、己ではない者の口で、それを天に向かって叫んでほしかった。そういう弱いところが、俺にはあるのだ」

「私がおります。私が、父上をお支えします。呂尚どのもおられます。そのほか、この周の役人が。武人が。天下の万民が」

 父上は、一人ではない。

 それを聴いたとき、姫昌の涙は、渭水の流れを思わせるほどにとめどもないものになった。


「私の名で。兄君がどのような目に遭わされたのか、私の口で。父上は、ただ、告げてやってほしいのです」

「俺が。何を——?」

「天下の万民に。許されざるを行えば、どうなるのか。我のみをもって尊しとする王が、どのような最期を迎えるのか。それを告げ、示し、ただ一言」

 続け、と。


 つい先日まで目立たぬようにし、父親の影に隠れるように過ごしていた姫発である。彼は、父の優しさを十分すぎるほどに見てきた。だから、父に足りぬものを知ってもいた。彼は若い。まだ少年と言ってよい。だからこそ、己が見た世界というものを率直に口にすることができた。


 この親子が同意をすれば、周は、果てしない戦いに漕ぎ出してゆくことになる。この夜、それが確かなものになった。

 どれほどの血が流れ、どれほどの屍が積まれるのか。それでも、今、示さなければならないのだ。

 父と子ではない。二人の男として、彼らは固く手を取り合っている。



 同じ夜。呂尚の館。妲己が、湯を差し出している。

「兄様。どうかなさいましたか」

 なにが、という顔を、呂尚は向けた。

「笑っておられました」

「そうであったかな」

「なにか、おかしいことでも?」

 妲己は、呂尚が血で汚れて帰ってきてから、彼の様子にずっと気を配っている。たまに、このように子供を扱うようにして接してみるが、呂尚の様子はたいして変わらない。

 変化があるとすれば、あれから二度、呂尚は妲己の女の体を求めたことであるが、べつに無理やりということはなく、妲己がそれを無邪気に喜んでいるようなところがあった。


「いや、なに」

 呂尚の目が、ほそくなった。妲己しか知らぬ微笑み方である。

「申のことを、思い返していた」

「申のことを。この秋の口までずっと過ごしていたはずなのに、もう、ずっと遠い昔のことのよう」

「だが、それでいて、昨日のことのようでもある」

「たしかに。へんなの」

 妲己が土を焼いて作った鈴が鳴るような笑い声を立てる。

「肉を捌くために獣を吊るして抜いた血を、裏の小川に流すようにしていたな」

「ええ。わたしの、おじいさんが小川に流れ込むよう土を掘ったそうです」

「そうか。どれだけ血を流しても、小川の流れは、いっとき汚れて濁ったとしても、すぐに澄んだものに戻ったものだなあ」

「たしかに、そうですね。血の汚れを、きれいに洗い去ってくれていました」

「そういうものなのだろうな」

 呂尚がしているのが何の話なのか、妲己には分からない。ただ小首を傾げ、くすくすと笑った。

 風が、強い。天下の西の端と言うべきこの地を囲む山々も、そろそろ白くなるらしい。妲己は、街で聴いたそんな話を、なんとなく思い出していた。

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