黄夫人、乱心す
事件は、ある朝起きた。丁が鹿台で暮らすようになり、ちょうど一年というときである。
男どもに取り押さえられた黄夫人の頬は削げ、目が飛び出したようになり、あれがあの花も目を背けると人に噂された黄夫人なのか、と見た者が目を疑うほどにその容貌は変わってしまっていた。
一年。ゆっくりと、黄夫人の心は壊れていった。塗り潰す隙間すらもないほどに、夜毎囁かれる丁の言葉が彼女を塗り潰し、このような生き物に変えた。そのことを知る者は、もうどこにもいない。
「妲己さまのお怪我は、大したことではないらしい」
「これで、あのお美しい顔に傷でも残ってごらんなさい。黄夫人は、炮烙(焼いた銅の柱に罪人を括り付けて殺す処刑方法)では済まないわよ」
「だけど、あれほど快活で、わたしたちにも親切にしてくださった黄夫人が、どうして」
鹿台の女たちは、口々に噂をしている。一人が、声をひそめ、眉を暗くして言う。
「わたし、見ていたの。そのとき」
「えっ。
「ええ、いたわ。ちょうど、可愛らしい雌花が摘めたから、妲己さまに差し上げようと思って」
甘夫人という、妲己よりも少し歳上に見える女が、見たことを話す。
妲己は、ほかの女たちとともに、中庭に出ていた。ふわりとした黄砂の空がよく似合う、美しい朱色の絹衣があたらしく仕上がったのだ。
「まあ、妲己さま。お美しい」
「いいえ。妲己さまがお召しになると、これほど見事な絹すらも色が褪せてしまっているわ」
妲己のそばにある女どもは、誰もが妲己に心酔しきっている。たぶん、そう褒められて顔を真っ赤にし、
「そんな。絹はきれいで手触りもよくて、昔から一度でいいから着てみたいと思っていたのが叶っていることだけでも幸せなのに。こんな、貧しい生まれのわたしが着てしまって、絹も怒っているわ」
と俯いてしまうようなところが、人に好かれるところなのかもしれない。
「でも、せっかく、紂王さまが、腕のいい織師と染師を見つけたから、と言って作って下さったから」
「そりゃあ、紂王さまも、妲己さまに似合う絹を求めるためなら、自ら
妲己が、さらに慌てて両手を振って否定する。
「これ以上、言わないで。恥ずかしいから。紂王さまは、わたしをとても大切にしてくださるから。だから、着て差し上げて、きれいでしょう、と喜ぶと、あの方も喜んでくださるかな、と思っただけなの」
「まあ、なんてお優しい」
そこへ、黄夫人が通りかかった。このところ見る影もなく痩せ、丁という小物以外は誰も近付けず自室に引きこもりきりで、どこか悪いのではという噂を疑う者もないほどに、まるで老婆のような様子になっていたが、この日は陽光の下に出て、そのさまを遠くから見ていた。
「それにしても、素敵。わたしも、こんな風な絹を着てみたい。そもそも、絹自体が良いわ」
一人が妲己の衣の裾に触れ、その手触りを味わう。
「そうね。なんでも、長江の中ほどにある楚という国に近いところに、蚕をよく飼う人が暮らすところがあるとかで。黄夫人の小物の丁という人が、紂王さまに献上したそうよ」
それを聞いた黄夫人が、ぱっと中庭に躍り出た。
「——黄夫人?お身体の具合は、いいの?」
きょとんとする妲己に、黄夫人が詰め寄る。
「お前。今、丁がその絹を献上したと言ったか」
「ええ」
「なぜ、丁が」
妲己は戸惑い、困ったように眉を下げた。
「ご存じなかったの?わたしはてっきり、黄夫人が丁にそう命じられたものと。夫人にもお礼を申し上げなければ、と思っていたところでした」
「命じるものか。お前のような女が着る絹を、なぜわたしが」
「ごめんなさい。なにか、行き違いがあるようです」
「お前は、どうしていつも——」
「ごめんなさい」
妲己のちいさな、しろい手が、黄夫人の痩せた肩にかかる。
「気がつかなくてごめんなさい。黄夫人がお身体を悪くされて、ご自分もこうして遊びたいだろうに、見えるところで楽しげに騒いでしまって。気が至りませんでした」
黄夫人の顔が、蒼白になった。妲己はさらに声を柔らかくし、続ける。
「知らなくて、ごめんなさい。あなたが、丁のことを好きだということを」
女どもが、一斉に妲己を見る。妲己は、ほんとうに天から降りたばかりのように汚れない顔で、黄夫人に笑いかけた。
「この衣は、あなたにこそ相応しい。わたしが袖を通してしまったから、紂王さまにお願いして、もっと綺麗なものを作っていただきましょう。あなたがそれを着た姿を、わたしも見てみたい」
狐が人を騙し、魂を喰らいに来ている。
人の心を捕らえ、操っている。
みんな、目を覚ませ。
黄夫人は、妲己の手を激しく振り払い、そのようなことを叫んだ。
続いて、その頬を激しく撲つ。女たちの悲鳴。黄夫人が、光るものを取り出す。なにかをさらに高く叫び、それを振りかざす。
妲己が目を閉じ、身を縮めたとき、黄夫人の手を何者かが打ち、刃はこぼれ落ちた。
「血迷われたか、夫人」
丁であった。
「誰か。男を呼んでくれ。黄夫人が、心を失くしてしまわれた」
騒ぎを聞きつけて集まってきた男どもによって、すぐに黄夫人は取り押さえられた。地を舐めながら妲己を睨み付け、なにか呪詛を叫び続けていた。
一連のことを知った紂王は、激怒した。
四肢を切り落とし、舌を抜いたのちに首を刎ねてやる、と叫んだ。周囲の者に宥められ、怒りはおさまったようだった。
しかし、その翌朝、黄夫人が鹿台の裏門に四肢を切り落とされ、舌を抜かれた状態で殺されて縛り付けられているのが見つかった。
誰もが、紂王が人をやってそのようにしたのだと思い疑わなかった。
おなじ朝、一年前にその裏門のところで黄夫人と出会った丁の姿は、はじめから無かったかのように消えていた。
「こわい、こわい。じゃあ、あの丁は、紂王さまがはじめから黄夫人の監視役として付けた者だったのね」
女たちは、そう噂した。それはすぐに確信となり、やがて事実となった。
「なんでも、紂王さまは、黄天化さまが周に奔られたことを、恨みに思っておられたらしい」
男たちも、そのように話すようになった。
「虎邑におられる黄飛どのは、このことを、すでに?」
「いや、まだだろう」
「あの黄飛どのは、このことを知られたら、どうなさるのだろう」
「自らの首を刎ねて詫びられるかもしれんな」
「まさか。なぜ、黄飛どのが」
「俺は、知っている。あのお方の軍に、三年いた。あのお方は、そういうお方だ」
黄夫人は、黄飛の娘である。その死を知らせぬわけにはいかない。ことが落ち着いたころ、朝歌からその使者が虎邑に向けて発せられた。
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