塗り潰す

「おい、てい

 と若い女が呼ぶ。すると、中庭を清めていた小物の一人が、尻を突き出したような格好から威勢よく立ち上がって返事をした。

「この首飾りは、わたしに似合うか」

「はい、とても」

「うそをつけ。紂王さまは、見向きもされなんだわ」

「いいえ、黄夫人。あなたほどのお方が飾られたのなら、紂王さまもきっとお目に止められます。なにか、事情があったのです」

「お前のようなよそ者に、分かるものか」

「出過ぎたことを、申しました」

 丁は地に両膝をつき、許しを乞うた。その姿が滑稽で、黄夫人は思わず笑った。

「お前、ここに来て、どれほどになる」

「私が行き倒れていたのは、黄砂が積もる頃でした。一年の半分ほどを、黄夫人にお世話になっています」

 今、虫が鳴く季節になっている。丁は、春、鹿台の裏門ちかくで行き倒れていたのを、たまたま花を愛でにゆくためそこを出た黄夫人に見つけられ、介抱された。

 南か、西の者なのだろう。肌や髪の色、目の色が珍しいと言って黄夫人は喜び、紂王さまが自分を見そめる兆しではないかとしてそのまま広大な鹿台の奥の一部に与えられている自分の居室まわりの掃除をする小物として置くようになった。

 もちろん、居室の殿に上がることはできない。だが、紂王の妾でありながら一度しか寝室に呼ばれず、それ以来自分の存在など無いもののようにして目も合わせてもらえないことが不満で仕方ない黄夫人が、こっそりと夜闇の中自室に引き入れている。


 そのときだけ、丁は獣のようになった。黄夫人に求められるまでもなくその上に覆い被さり、彼女の悲鳴のような嬌声が泣き声に似たものに変わってもなお止めることなく彼女の身体を揺さぶり続けた。

 朝になると、また従順な小物になり、決して黄夫人と同じ高さに頭を置かずに、聞かれたことについてだけ喋る。

「わたしの父は、かの黄飛大将だぞ。父が、紂王さまがわたしを欲しがっているから、とわたしをここに寄越したのだ。来たいと言って来たのではない。それなのに、当の紂王さまと言えば、あの妲己とかいう狐みたいな女ばかり側に置いて」

「また、妲己さまの話ですか」

 よく、黄夫人が話題にしたがる。おなじしょうでありながら妲己ばかりが可愛がられているのだから無理はない。丁は、少し呆れたようにため息をつき、それから妲己の姿を空に思い浮かべるようにして口を開く。

「妲己さまは、たしかにお美しいですものね——」

「なにか言ったか、丁」

「いえ、なにも。なにも申しません」

 慌てて飛び下がり、手を振って否定する。その姿もまたおかしく、黄夫人はふたたび白い歯をのぞかせた。

「たしかに、あの妲己さまがいらしてから、紂王さまの様子はお変わりになったと仲間から聞きます。古くからの占いを否定され、そのもと政について進言をしてきた忠臣をことごとく殺してしまわれた。周が攻めてくる、と夢にうなされるように慌て、軍を強くすることばかり。民は、たいそう苦しんでいるとか」

「あの妲己だ。あの妲己が、紂王さまをおかしくした」

「私には、分かりませんが。でも、きっとそうなのでしょうね」


 その夜、丁はまた黄夫人の室に呼ばれた。肌で絡み合いながら、黄夫人は涙を浮かべて問うた。

「言え。わたしと妲己と、どちらが美しい」

「黄夫人こそが」

「うそをつけ。お前も、こうしてお前の下で声を立てているのが妲己であればよかったと、思っているのだ」

「いいえ」

「うそをつけ」

 丁が、腰を激しく振り始めた。黄夫人が、背を反らせてそれに応じる。

「それほどに憎いのか、妲己が」

 耳元で囁くのは、別の者であった。そうでなければ説明がつかぬほど、その声も、口調も、いつもの丁とは違った。丁が、黄夫人の寝所でのみ見せる一面で、そうなると黄夫人はさらに激しい甘美さに包まれ、身を溶かす。

「黄夫人。お前が、天下でただ一人の女なのだ」

「そう、わたしは」

「かの黄飛大将の娘だ。紂王が、おかしいのだ。妲己が、紂王を狂わせたのだ」

「妲己が——」

「妲己は、悪賢い女だ。紂王の威を我が物と思い違い、それをほしいままにするため、紂王に取り入り、その骨を抜き去り、忠臣を殺させた。次は、どうなるか」

「どうなるの、つぎは」

「次は、お前だ」

 丁の腰の動きが、さらに激しいものになる。黄夫人は、ほとんど苦痛の表情のようなものを浮かべ、さらに息を切らせた。

「お前の父は、黄飛大将だ。その娘たるお前がここにいては、お前が黄飛大将に告げ口をし、武の力で己をちゅうさんと画策するだろうと妲己は考える」

「わ、わたしを」

「そうだ。お前は、黄飛大将の娘なのだ」

「わたしの父は」

「黄飛大将の娘ともあろうものが、このような悪逆を、許しておくのか」

「いいえ、それは——」

「では、どうするのだ」

 丁の動きが、止まった。黄夫人は、胸を上下させて息をしながら、呆然と天井を見上げてその声を聞いている。

「妲己を——」

 どうするのか。このままではいられないのなら、どうするのか。黄夫人の霞がかった頭で、それを考えることはできなかった。


 妲己は、鹿台の奥の宮においても、ほかのしょうに好かれていた。いや、なかには紂王の寵愛を一心に受け、彼女が来てから自分は置き忘れられたようになっていることを不満に思い、彼女を羨み、憎む者もいる。しかし、それはたいてい、妲己と直接言葉を交わしたことのない者ばかりであった。

 はじめ、妲己は、嫉妬の対象でしかなかった。それが、どれだけ彼女を憎んでいても、ひとたび彼女を話し、彼女を知る機会を得た者は、まるで雪が融けるようにたちまち彼女の虜になってしまうのだ。

「ほかの妾どもを見ろ。あの女の、あやしげな術のせいだ。そうでなくては憎いと思っていた者が、たちまちのうちに態度を変えたりするものか」

 丁の言葉が、黄夫人を塗り潰してゆく。いや、この半年をかけて、それはゆっくりと黄夫人をその色に染めてゆき、もう塗り潰すところなど残っていないのかもしれない。


 ただ快楽の海に沈み、紅潮させた胸を上下させるだけの生き物。それを、丁は静かに見下ろし、鋭いうめき声とともに精を放った。

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