豚の穴
李靖は、忙しい。朝まで続いた黄飛を歓待するための宴を辞したそのままの足でまた鍛冶場に戻っている。
各地からもたらされる報せを耳に入れ、必要なことを記憶する。紙も筆もない時代だから、これが当たり前である。
報せは、主に人がその足で運んでくる。中華はあまりにも広いため、それを網目のようにして走る河川を伝ってあちこち無数に敷かれた中継点ごとに、報せを運ぶ人が変わる。
昔から、国と国、邑と邑、地域と地域は交易のために結ばれていたから、その目に見えない網をうまく使っている。申公豹が、その網についての情報に詳しかった。彼は彼で、これまでの彼の仕事のために培った経路があり、その一部を使ってもよいということになっているのだ。
それは、たいへん助かる。この広大な中華に、周に同心する者を繋ぐための網を一から敷こうと思えば、何年、何十年とかかるだろう。あらかじめ形になっていたものがあったからこそ、数年でこれほどまでに速く、遠くの情報を仔細に得ることができるようになったし、こちらからの接触も容易になっている。
だが、李靖は、手放しでは喜んではいない。
周のために申公豹の道を使うということは、申公豹に周の全てが知られるということでもある。もし、申公豹が裏で商とも通じていたとしたら、とんでもないことになる。
商にはこれまであまり入ってこなかったし、聞仲率いるその軍の警邏も隙がないため、潜入も容易ではないとはじめに難色を示していた。
申公豹はそう言うが、たとえば斉軍と豪族どもに連合をそそのかし、聞仲軍を朝歌から引き剥がしたときなど、あっさりと朝歌に入り、聞仲のすぐそばにまで近付き、逃げ帰っている。
また、黄夫人の一件のときなど、あろうことか朝歌の中枢である宮の、その奥の宮で一年も起居していた。商は警備が厳しいから苦手だ、と言っていたわりには、ずいぶんと鮮やかな潜入ぶりである。
また、申公豹は、商を支持する豪族を束ねる顔役のようになっている盂炎にも接触している。呂尚が、彼がこちらに付いてくれれば、と漏らし、申の戦場で接触した以外にも独自に、である。
李靖は、申公豹について、警戒を解くことはない。あまりにも、上手くできすぎていると思うのだ。
こちらの考えを知った上でなら、たとえば聞仲ほどの者ならその裏からひっくり返すようなことくらい考え付くだろう。上手くいっていると信じ、その方向に進んでゆく。その一歩一歩が、実は決して抜け出せない深い瀬に通じているとしたなら。
そうではないという確信は、得られない。あるのは、申公豹はもしかしたら周と敵対する者どもにも通じているのではという疑念と、彼が決して周人とならず、呂尚のために働くわけではないと断言しているという事実である。
申公豹が盂炎と接触しているという話も、彼から直接聞いたのではなく、彼の知らぬ、李靖が独自に敷いた経路からもたらされた情報である。それはまだ、この周の影響の及ぶ邑や豪族たちの居所が主なものでしかなく、申公豹の持つ網に比べればちっぼけなものであるが、ようやく申くらいにまでは届きはじめている。
彼が裏切ったなら——周のために働くのではないのだから、裏切りとは言わぬのかもしれぬが——、周は下手をすれば滅ぶ。それくらいのことを、彼自身がしている。
天下に紂王の非を鳴らし、正しきを説き敷くからこそ、同心参戦を約してくれる者がいるのだ。それが、裏では敵の主要な人物を我が方に引き入れるため、謀ってその身内を殺し、それを紂王のせいだと思い込ませたりしていたと人が知れば、どうなる。
今、周に付いている近隣の豪族すら、離反してしまうことだろう。
呂尚がそのことを考えぬはずはない。そう思うが、どこか、申公豹という人間自体に愛着のようなものを持ち、信じている気がする。それが、申公豹の怖いところなのだ。
李靖は、思う。たとえ呂尚がどう考えようとも、申公豹が周や呂尚のためにならぬことをしようとしたその時、この天地の間から消すと。
李靖には、情報を精査して統合する以外に、重要な役割がある。
「
と、低く喉を鳴らす。咳払いに似ているが、また違う音である。
そうすると、鍛冶場の敷地の隅の井戸で顔を洗っている李靖の背後に、複数の影があらわれた。
「間諜が出た」
「承知しました。今回は、どちらで?」
影は、多くを聞かない。自分の仕事は一つしかないと知っている。
「珍しいことだ。この豊邑の中だ」
「ほう、それは。このところ、無かったことです」
「商も、知恵を付けているのだろう。旅人が行き交う経路に乗って情報が運ばれてくるのと、逆向きに運ばれてゆく情報があった。それは、我らの内情のことだった」
「出所を辿れば、この豊邑だったというわけですね」
影が、みじかく引き継いだ。
「そうだ。名は——」
李靖は影に名と姿、職業を伝え、また顔を洗う作業に戻った。
顔を上げたときには、もう影はひとつも無くなっていた。
数日後、二人の男が、鍛冶場の奥に引き連れられてきた。
「——さて、
と、一人の名を呼ぶ。男は自分の名をなぜこの鍛冶場の主が知っているのか不思議そうにしながら、なぜ自分が刃物で脅されてここまで引き連れられてきたのか分からぬというような様子であった。
「いくつか、ものを訊ねても構わんかね」
李靖の声はいつもと変わらず、茫洋としている。
あたりでは、ちょうど銅が溶け上がったらしく、それを逞しい男たちが掛け声を合わせながら鋳型に流し込み、ものを作っている。誰も、李靖たちの方を気にする者はない。
「これより十里北の拝という小さな
男は、それではじめて自分がここに連れられた意味と、李靖がただの鍛冶屋の主などではないと知ったのか、見る見る顔を恐怖に歪め、声を上げて逃げ出そうとした。
「おっと。そう、急がんでくれ」
李靖が、手元にあった小槌を素早く投げ付ける。それは鋭く回転しながら男の脛を襲い、それで脚が折れたのか、男は叫びながら転がった。その声は、この建屋に充満する職人の掛け声や、真っ赤に煮えた銅が鋳型に触れて冷えるときの鋭い音に塗りつぶされた。
李靖がゆっくりと立ち上がり、男のそばに屈み込む。
「逃げたということは、私が疑っていることが間違いでなかったということだ。ならば、もう少し、ものを訊ねるぞ」
声の調子も表情も、全く変わらない。そのまま、もう一方の足の指を槌で打った。骨の砕ける音がして、男は低く長い叫びを立てた。
「そうだ。お前にも、訊ねるとしよう」
もう一人の男に、目を向ける。すでに男は震えて失禁し、歯の根が合わない様子である。
「なぜ、黄飛軍のことを探る」
「あ、あ」
「落ち着いて話してよい。ほんとうのことを全て話せたら、お前だけは助けてやる」
「あたらしくやって来られたという将軍を、み、見てみたくて」
「そうか。世に名高い黄飛軍とはどれほどのものなのか、珍しく思ったのか」
李靖が、また一つ槌を振り下ろす。転がっている男の、すでに折れている方の脚をそれは打ち、大腿の骨が弾けながら折れるような音が響く。それを聞き、尋問を受けている男はまた身を尖らせて縮めた。
「なら、なぜそれを、粟を求めにきただけの旅人に、密かに伝えるのだ。それも、何度も。兵の数、軍を成す将の名。さっそく、商からもたらした戦車の効率的な製造法を授けていること。そのようなことを、なぜ話す?」
男は、答えることができない。ただ震え、鍛冶場を漂う湯気とも煙ともつかぬ靄を吸っては小さな息にして漏らしている。
李靖が、顎でひとつ合図をした。職人の一人が、取手の付いた土器を持って近付いてきた。
「この男は、お前の知り合いか」
脚に走る激痛に呻き声を上げ続けている男を目で指し、尋問の相手に問うた。
「し、知らない」
「そうか。知り合いか、そうでないか、親か、兄弟か。どうでもいいことだ」
李靖は受け取った土器を、おもむろに転がっている男に向けて傾けた。
耳を覆いたくなるほどの絶叫。土器に容れられていたのは、溶けた銅だった。
「僅かな量で、肌は骨まで焼け焦げる」
注ぎ口から垂らされたものが、男の背を焼いている。眉をひそめるほどの異臭が漂うが、李靖は顔色ひとつ変えない。
「お前が答えるまで、この男は焼かれてゆく。この男が焼け死ねば、次はお前だ」
尋問を受ける男がまたさらに激しく歯を鳴らす。なにか言おうとするが、恐怖のあまり声にもならない。
「
叫んだのは、銅で背を焼かれた男である。
「ほう、王兆とは、どこの王兆だ」
「
「拝のような小さな鄙の長が、お前たちの元締めか。そのようなこと、あるものだろうか」
「知らない。分からない。とにかく、俺は粟が半値になるなら、と思って引き受けただけなんだ」
拝の王兆。その名を、記憶した。
「お前」
目の前で人が焼かれようとしている様を見せつけられている男は、全身を硬直させた。
「お前が知っていることは、何だ」
「な、なにも」
「お前も、王兆か」
「そ、そうだ」
「ほかは、何も分からぬか」
「わ、わからない」
おい、と李靖は職人の一人に声をかけた。職人は脚だけでなく背をも貫く激痛に、もう息も絶え絶えになっている男の首を上げ、その目のところに銅の注ぎ口をあてがった。
「おい、何をするんだ、そんなことしたら」
注ぎ口も十分に熱く、すでに男の瞼を焦がしている。
そのまま、また絶叫。瞼を焼き焦がし、瞳をも真っ赤に溶けた泥が覆う。しばらくその様子をもう一人に見せ続け、李靖が頷くと、叫びを上げ開いたままの口に、残った銅が全て注がれた。
男はしばらく転がり回っていたが、すぐに動かなくなった。
「——さて。何の話だったかな」
「王兆だ。王兆は、西の方からやってくる武人らしい奴と、いつも会っているらしい。なんでも、申の武人だとかいう話だ」
「申の?」
申といえば、商を取り巻く豪族の中核である盂炎の治める邑であり、李靖にとっても故地と言ってもよいくらいに馴染みのある場所である。
申に情報が流れているとすれば、やはり、その網は朝歌から広げられているものと見て間違いない。
「なんだ。あの男の知らぬことも、知っていたではないか。意地の悪い奴だ」
「なあ、助けてくれ。いや、助けてください。知ってることは、全部話したんだ」
「そっちの男は、炭と一緒に。この男は、豚の穴だ」
はっ、と声を上げた職人が数人、大ぶりな槌を手に近寄ってくる。
豚の穴、というのは、家畜の豚を育てるのに、この時代、人間の糞尿を使うことがしばしばあった。その豚の飼われる穴に、全身の骨を粉々に砕いた状態で放り込むのだ。
豚は、何でも食う。この男の骨の欠片一つでも、もう二度と人の前にはあらわれぬだろう。
豚の穴を、人は汚らわしいとして嫌う。しかし、豚がいるからこそ、街に糞尿が溢れずに済むのだ。自分と同じような役割ではないか、と李靖は思っている。
国。それを求める心。それは清く、美しい。戦場に出て武器を振るう勇気も、民を慈しみ手を差し伸べる優しさも、全て同じ心から現出するものだ。それらがいつも、清く、美しくあるために、誰かがこうして汚れたものを引き受けなければなるまい。
天は、おそらくどれだけ時を重ねたとしても、呂尚のような者をもう二度と産み落としはしないだろう。自分のように、ちょっと鍛治のことが分かる程度の平凡な男があれほどの才を
無駄を嫌い、よく気がつく、として呂尚は自分に情報を司る役割を与えた。それを、自分なりに、最大限に拡大し、自ら役目を見出し、担っている。その自負がある。
呂尚は、人間すぎるのだ。人でないもののように思えることもあるが、誰よりも心が細やかで、ものに感じやすい。このようなことがこの世にあると知るだけで、壊れてしまうかもしれない。
だから、自分だけでいい。自分たちだけでいい。
穴の中の豚であっても、それが誇りになるのだ。
言葉にもならない悲鳴をあとに、李靖は職人の中で腹心として使っている一人を呼んだ。その目は、一心に東の空を睨んでいる。
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