第83話「撫でて、触れて、温めて」
あのリフレッシュの効果か、中間テストの結果は上出来だった。
新学期早々の実力テストも中々の結果だったので、一発目の定期考査ならやってくれるだろうとそれなりに期待はしていたが、予想以上の出来だったので驚いた。
「すごいね、全部平均以上、おまけに90点以上が3科目もある」
「頑張っちゃった。えへへ」
自分でも取ったことのない点数のため、かなり口元が緩んでいる。
照れながら笑う彼女のそれは、やっぱり亜弥の表情と似ていた。
「じゃあ次は100点でも目指すか?」
「ええ? 無理だよ。毎回1問は全然わかんない問題あるんだから」
「でも答え聞いたらわかるんでしょ?」
夏海ちゃんはコクリと頷く。
「なら大丈夫だって。次は100点目指してやってみよう」
「うげえ、先生の鬼」
「冗談だよ」
ははは、と軽く笑う。
半分冗談が入っているけれど、ひょっとしたら行けるのではないか、とも思ってしまう。
もちろん簡単な道のりではないのはわかっている。けれど、俺は夏海ちゃんならやれると信じている。
「にしてもすごいよ。よく頑張ったな」
「えへへ、うん?」
キョトンと夏海ちゃんは俺を見る。
気が付けば俺は彼女の頭に手が触れていた。
無意識にやってしまった。どうしよう、嫌われたりしないだろうか。
とっさに手を引っ込めた。こんなのセクハラ案件だ。
せっかくここまで信頼や絆を築いてきたのに、これじゃ台無しだ。
しかし夏海ちゃんは最初こそ驚いていたものの、まんざらでもない様子で俺の方を見てくる。
「先生の手、おっきいんだね。ごつごつして、指が太くて、なんか、お父さんに似てる」
「そりゃ、よかった……」
肝を冷やしたが、訴えられなくてよかったと安堵する。
一瞬で心臓の鼓動が早く動き、またすぐにゆっくりと元のスピードに戻った。
相変わらず夏海ちゃんは俺を見たままだ。やっぱり嫌だったのだろうか。
「先生」
「はい!」
「私、頑張ったよ」
「そうでございますね……」
「だからさ、ご褒美、欲しいな、なんて……」
「はあ……」
緊張でピンと張っていた背中が緩む。
ご褒美をねだるなんて珍しいけれど、最近の夏海ちゃんはかなり甘えたりわがままを言ったり、自分に正直になりつつある。
だから、これもその一つなのかもしれない。
「いいけど、何がほしいの? あんまり高すぎるものはあげられないけど」
「そんなんじゃないって。ただ、頭を撫でて欲しいなって思って」
「……それでいいの?」
うん、と夏海ちゃんは頷く。
俺としてはセクハラにならないかかなり心配なところだけれど、彼女がいいなら大丈夫なのだろう。
ゆっくり、おそるおそる、夏海ちゃんの頭を撫でる。
ちゃんと丁寧に手入れをしているのだろう。髪の質感はかなりサラサラだった。
「うん、やっぱりお父さんみたい」
「お父さんにも撫でてもらったことあるの?」
「そうだよ。今でも覚えてる。私が何か頑張った時、お父さん、いっつも頭を撫でてくれるんだ」
「そうなんだ」
夏海ちゃんが彼と別れたのはもう何年も昔で、まだ彼女が小学生に就学する前だと聞いた。
それなのに未だに覚えているということは、夏海ちゃんの中で相当大きな思い出として残っているのだろう。
決して、彼の代わりになろうなんて思わなかった。
俺は俺だし、彼は彼だ。
けど、この間だけは夏海ちゃんのお父さん役になれたら、と少しばかり願ってしまった。
「今日はタルトを作ったの。自信作だから是非味わってほし、い、わ……」
いつもはノックをして扉を開く亜弥が、この日に限ってノックもせずにドアを開ける。
その瞬間、まるで時が止まったかのように、ピタリと俺を含めた3人の挙動が制止した。
ダラダラと冷や汗が流れる。亜弥の無言の圧がプレッシャーとなって俺に襲い掛かってくる。
「これはこれは先生、一体何をしているのかしら?」
そうやって満面の笑みを浮かべる亜弥は、まさしく鬼だった。
「ち、違うの! 私、テスト頑張ったから、先生に、ご褒美、欲しくて、それで、頭撫でてもらって……」
夏海ちゃんは必死に弁明しようとしたが、恥ずかしくなったのか途中で顔を赤くして机に顔をうずめた。
これで信じるわけがないだろうと思っていたが、亜弥はすんなりと夏海ちゃんの言うことを信じた。
呆れた顔はされたけど。
「そう。でも、あまりこういうことを積極的に求めるのは感心しないわ」
「ごめんなさい」
シュンと夏海ちゃんは肩を落とす。
俺もつられて肩をすぼめた。
「ほら、おやつあるからリビングに行きなさい。それと洋介、あなたはまだここで残りなさい。今から取調べを行うわ」
「はい……」
ゴゴゴゴゴ、という効果音が聞こえてきそうな圧力に押されながら、俺はその場で正座した。
そんな俺を忍びないと思ったのか、夏海ちゃんは忍び足で部屋を出る。
なんだか亜弥の目が怖かったのは、おそらく気のせいではない。
「さて」
夏海ちゃんが出て行った部屋で、亜弥は俺の目の前で正座する。
恐ろしい笑顔とは違い、無表情なのもまた恐ろしい。
「あなたはテストのご褒美として夏海の頭を撫でたそうね」
「はい……」
「先に言い出したのは誰?」
「いや、願ってきたのは、夏海ちゃん、なんだけど、なんか、その前に一回手、出しちゃって、その、それで、あの……すみませんでした」
深々と土下座をした。だって俺から手を出したのだ。怒られて当然だ。
顔を上げて、と告げる亜弥の声は酷く冷たかった。
案の定、表情一つ変えずにじっと冷淡な目で見つめる亜弥が目の前にいる。
「そう、あなたから先にしたのね。それはなぜ?」
「いや、無意識というか、なんと言うか、なんか、俺に娘がいたらこんな感じなのかなって思ってたら、そうなってて……」
「そう。よくわかったわ」
切り捨てるように亜弥は言葉を吐く。
これは亜弥との関係が終わったかもしれない。胃がキリキリと痛みだす。
「私、今日タルトを初めて作ったの」
「はあ、タルト」
いきなり何を言い出すんだ。頭の中が真っ白になって混乱する。
「結構難しくてね、頑張ったのよ」
「そうですか」
「だから、ね? 私にも、ご褒美、くれないかしら」
そこにいたのは、さっきまで冷徹な表情を浮かべていた氷の美女ではなく、上目遣いで俺にすり寄ってくる可愛らしい30代後半の子持ち人妻だった。
流れについて行けない。
多分今の俺の顔は絵文字のようなシンプルな作りになっているだろう。
「あの、どういうこと?」
「あの子だけご褒美をもらうなんてズルいわよ! 私にも頂戴!」
「ええ……」
どうやら、俺が夏海ちゃんにやらかしたことに対して怒っているのではなく、ただ夏海ちゃんに対して嫉妬しているようだった。
可愛い奴め、と言いたいところだけど、さすがに心臓に悪い。
「い、いいけど」
戸惑いながら、俺も夏海ちゃんと同じように亜弥の頭を撫でた。
亜弥と似て髪がサラサラで、なんだか変な気分になる。
中学の頃に付き合ったことがあるとはいえ、こんなことをするのは当然初めてだ。
「あの人みたいな手ね」
「それ、夏海ちゃんにも言われた」
「やっぱりあなた、生まれ変わりなのよ」
「そんなわけないだろ」
俺の手のひらの中の亜弥は、気持ちよさそうに身を委ねている。
その顔が愛おしくなって、俺は彼女の身体を自分のところに寄せていた。
ぎゅっと、左腕で亜弥の華奢な身体を包み、右手で頭を優しく撫でる。
さっきよりも亜弥のぬくもりが伝わってくる。
亜弥も自身の両腕を俺の背中まで回して、しばらくは何とも言えない幸せな抱擁の時間が続いた。
「……何やってんの?」
ギクリ、と再び身体が硬直する。
ドアの方を見てみると、夏海ちゃんがジトーッと軽蔑に近い目でこちらを見ていた。
亜弥は娘の圧に耐えられないのか、振り返ることができずにいた。
「あのさあ、そういうことは2人きりでやってくれないかな」
「面目ございません」
俺は亜弥と一緒に頭を下げ、リビングに向かった。
もちろん、タルトは一品級に美味しかった。
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