第147話「過去と今と未来」

 寝室は、亜弥と同じ部屋だった。

 このマンションは家族共用のスペースとしてキッチンやリビング、浴室にベランダがある他、各々のスペースとして3部屋ほど用意されている。

 そのうちの1つは夏海ちゃんの部屋だ。

 そして残る2つは、亜弥の寝室と亡くなった旦那さんの書斎だ。


 亜弥の部屋はパステル調な夏海ちゃんの部屋と違い、モノトーン気味の部屋だった。

 部屋の中も散らかっておらず綺麗にされており、とてもシンプルだ。


 ベッドがシングルではなくダブルなのは、旦那さんが亡くなる前は家族3人で寝ていたそうだ。


「あの子が小学校に入る前まで、家族川の字で寝ていたの。ふふ、あの時の夏海の寝顔、天使みたいだった」


 昔を懐かしむように、亜弥は俺と背向になって語る。

 もう何年も昔のことなのに、つい昨日のことのようにいくつもの思い出エピソードを次々と披露していった。


「もう夏海ちゃんの歳になると家族3人で川の字なんて、恥ずかしがるだろうね」

「そうね。子供の成長って、嬉しい反面寂しいところもあるのよ。夏海が昔使っていたランドセルや漢字のドリル、授業で作った絵や工作なんかを見ると特にね」


 もぞもぞ、と後ろの方で何かがうごめく音がする。

 かと思ったら、こてんと、温かい感触が俺の背中を掴んだ。


「なんだか、新婚の時みたい」

「俺は結婚したことないからよくわかんないな」

「とても温かくて、幸せな感情よ。またこんな気持ちになるなんて思わなかった。その相手があなたで、本当に嬉しい」


 もぞもぞ、と彼女は俺の懐に腕を忍ばせる。

 ちょっとしたことですぐに折れてしまいそうなほどの細い腕に小さな掌。

 この手で夏海ちゃんをここまで大きく育てたのだろう。


 俺はぐるりと振り返り、亜弥の方を向いた。

 ポッと彼女の頬が赤くなるのを確認すると、そのまま優しく彼女を抱きしめる。

 ぎゅーっと、包み込むように、亜弥の顔を胸元に寄せ、ポンポンと軽く撫でる。


「今まで、たくさん頑張ったんだね。1人で、夏海ちゃんをあんないい子に育てて、本当にすごいよ。尊敬する」

「そんな、どうしたの? 褒めても何も出ないわよ」

「そんなんじゃないよ。単純に俺がこうしたいだけ」

「変な人ね、ホント…………」


 亜弥は俺の胸に顔をうずめる。それと同時にずび、と鼻を啜る音が聞こえた。


「泣いてる?」

「見ないで」

「ごめんなさい……」


 その後も、ずび、ずび、と亜弥は静かに泣いた。

 俺は何も言わず、そのまま彼女を抱きしめ続けた。




 目が覚めると、俺の腕の中に亜弥が眠っていた。

 寝ぼけた目をこすりながら、きょろきょろと部屋の中を見渡す。

 壁にかかってあった時計は7時半を指していた。


「…………んっ」


 ゆっくりと亜弥の目が見開く。

 ぼやけた目で俺を見つめ、にぱっと笑った。


「おはよう」

「ああ、おはよう…………」


 するすると、亜弥は俺の腕から抜け出し、ベッドから起き上がった。

 グッと背筋を伸ばし、部屋を出る。


 俺も彼女に続いてリビングに向かうと、亜弥はキッチンにて味噌汁を作っていた。

 手際よく大根を短冊切りにし、豆腐、きざみネギを鍋に入れ、味噌を溶かしている。

 それと同時並行で、フライパンに油を敷き、卵を2つ割った。


「ああ、もうすぐ朝ご飯出来るから、ちょっと待っててくれる? テレビも勝手につけていいから」


 そう言われ、俺はソファに座り、テレビをつける。

 朝のニュース番組ではエンタメのトピックをやっていた。

 とある映画の試写会だったり、俳優と女優の結婚報告だったり、俺達とは縁もゆかりもないきらびやかな世界のニュースばかりだ。


 できたわよ、と亜弥が言うので、俺はテレビを消し、彼女の元に戻った。

 テーブルには味噌汁と、目玉焼き、そしてふっくらと炊き上がった白ご飯が並べられていた。

 白米を炊いている姿なんて見ていないのに、いつの間に準備していたんだろう。

 そんなことを考えながらお椀の白ご飯を眺めていると、呆れたように亜弥が笑った。


「昨日の夜にタイマーをセットしておいたのよ」

「ああ、なるほど」


 今のやりとりで、俺が相当自炊に無頓着か、ということがハッキリとしてしまった。

 なんだかかなり恥ずかしい。顔を真っ赤にしながら、俺は味噌汁を口にする。


「…………美味い」


 実家でも朝食は和食だった。

 中でも母が作る味噌汁は心が落ち着くものがあり、特に冬場だと体の芯まで温まってくる。

 亜弥が作った味噌汁も、それと同じくらい、下手したらそれ以上に、身体がポカポカと温まってきた。


「毎朝作ってほしいくらいだ」

「毎朝だなんて、そんな、土日は仕事がないからパンよ」


 …………それはひょっとしてボケで言っているのだろうか。

 しかし目の前の彼女は顔を真っ赤にし、下を向いていたので、おそらくこれは俺の言葉の意図をちゃんとくみ取ったか、もしくはさっきのギャグが滑ったことが恥ずかしかったかのどちらかだろう。

 少々天然が入る亜弥だけど、今回に関してはさすがに前者であってほしい。


 チラリ、チラリと亜弥がこちらを覗いてくる。

 そんなに俺の反応が気になるのだろうか。


「さっきも言っただろ? 美味しいって」

「そうじゃなくて、どこまで本気なのかなって」

「本気って?」

「毎朝作ってほしいって。それ、本当?」


 自分で言った台詞をそのまま返されて、少し恥ずかしい。

 箸を持つ手が一瞬だけ止まってしまった。それと同時に食べていたものが喉につっかえる。

 ドンドンと胸を叩き、呼吸を整え、彼女に向かって優しく微笑みかけた。


「100%本気だよ。すごく心が落ち着く味がした」

「そう……なら嬉しいわ」


 彼女も自分が作った味噌汁を飲む。

 こんな風にこれからも穏やかな1日を始められたらな。

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