第146話「修学旅行の間に」
中間考査が終わって1週間後、夏海ちゃんたち3年生は修学旅行のため、しばらく不在だ。
普通なら京都や奈良に行くのだろうけれど、彼女たちの学校は毎年長崎に向かうらしい。
心の中にしこりのようなものはまだ残っている。それは夏海ちゃんや亜弥も同じだと思う。
せっかくの修学旅行も、このままだと楽しめないかもしれない、と少しだけ危惧してしまった。
最悪聖良さんがいるから、なんとかなるかもしれないけれど。
……亜弥の方は大丈夫だろうか。
そもそも彼女が「家を売り出したい」なんて言い出したのは、あの部屋に1人で暮らすのが寂しいから、というものだった。
可愛らしい理由かもしれないけれど、大人になってからの孤独というものはやはりなかなか心に来るものがある。
当たり前の景色に、自分の家族がいない。
「ただいま」と言っても「おかえり」と返してくれる相手がいない。
ひょっとしたら今頃1人寂しく部屋で萎れてしまっているのではなかろうか。
少しだけ心配になって、俺は彼女に電話をかけた。
「あ、もしもし?」
『…………洋介? なんで電話してきたの?』
ほんの少し、涙声だった。きゅーっと胸が苦しくなる。
「いや、声が聞きたくなって。ダメだった?」
『ううん、今、家に私だけだから、寂しくて。あなたが電話をかけてくれてよかった』
亜弥の声が明るくなる。
その声を聞けただけでも電話をかけた甲斐があったものだ。
亜弥自身、あの家に1人きり、というケースは少なくなかったはずだ。
毎週の部活動は午前中だけではあるが夏海ちゃんは学校だし、夏海ちゃんが友達の家に泊まりに行く、ということも何度かあっただろう。
きっとそう言う瞬間瞬間を噛みしめながら、今まで過ごしてきたのかもしれない。
『今、仕事終わり?』
「そう。これから帰るところ」
『じゃあ…………今夜は家に泊まっていったらどう?』
「…………え?」
家に、泊まる?
ちょっと言っている意味がわからなかった。
どうしてそんな発想に飛躍してしまうのか。混乱の中、どうにか言葉を紡ぎ出す。
「いや、いいよ。悪いし」
『そんなこと言わないで。このままだと私、寂しくて死んじゃいそう……』
また彼女の声が萎れていく。
そんな風に言われてしまうと断ることなんてできない。
「わかった。準備するから、ちょっと待ってて」
『ええ。今日のあまりものだけど、美味しいものを作るから待ってて』
ふふっと彼女は微笑む。なんだか少女みたいだ。
電話をかけながら家に戻り、パジャマや洗面具等を鞄に詰め込んで、彼女の家に向かった。
なんだか非日常感があって少し心がワクワクする。
ピーンポーン、とインターホンを鳴らし、彼女が出迎える。
亜弥の足音はなんだかスキップしているようだった。
「いらっしゃい。さ、入って」
なんだかいつもよりもテンションが高い。
さっきまで萎れていたはずなのに、そんな様子など微塵も感じない。
ルンルンと鼻歌交じりに彼女はリビングに案内した。
テーブルにはたまごスープとカボチャの煮つけ、そしてほくほくの白ご飯が並べられていた。
「ごめんなさい、今日の夕食の余りものなんだけど」
「いや、構わないよ。どれも美味しそうだ」
実際、舌鼓を打つくらいとても美味しかった。
これが余りものだとしても、世界一美味しいと自慢できる。
「やっぱり美味しい。ありがとう、亜弥」
「どういたしまして」
俺の目の前に座った彼女は、慈しむように俺を見つめる。
そんなにまじまじと眺められると、何でもないのに緊張してしまう。
「な、何?」
「いいえ? 何でもないわ」
ニコニコと彼女は笑う。
そんなに俺が美味しそうに食べているのが嬉しいのだろうか。
夕食を食べ終わった頃になると、もう11時半になろうとしていた。
「お風呂入っちゃって」
「わかった」
彼女に促されるまま、俺は浴室に向かう。
特に何も起きない。それはわかっているのだけれど、どうしても緊張してしまう。
ここで、亜弥や夏海ちゃんが脱衣していると思うと…………想像しただけで罪悪感が芽生えてしまった。
家族になることの大変さの片鱗が垣間見えた気がする。
湯舟にはまだお湯が張ってあったが、さすがに浸かることはできなかった。
シャワーを済ませ、すぐに浴室を出る。
本当はほんの少しだけ、亜弥がやってくることを期待してしまったが、やっぱりそんなことは起きない。
がっかりするのと同時に、安心を覚えた自分がいる。
「早かったのね」
「シャワーだけだからな。亜弥は入らないの?」
「私はもう済ませたから」
だったら尚更湯船に入らなくてよかったな、と安堵するとともに興奮する。
亜弥が入った風呂…………想像するだけで心臓の鼓動が早くなる。
俺ってこんなに気持ち悪い人間だったのだろうか。
「あら、ちょっと顔色悪いわよ? ちょっとのぼせたんじゃない?」
ニヤニヤと笑っているあたり、確信犯だ。
「なんでもないよ」
「そんなことないじゃない。ほら、さっさと横になりなさい」
強引に彼女に手引きされ、俺はリビングのソファに横になった。
しかもなぜか、亜弥に膝枕をされている。
恥ずかしいのメーターが最高潮を振り切ってしまい、脳が沸騰してしまいそうだ。
「いや、あの、えっと……」
「やっぱり私、あなたと一緒に暮らしたい」
俺の頭上で、彼女が聖母のような微笑を浮かべる。
その笑顔と優しい声に何も言い返すことが出来ず、されるがまま頭を撫でられた。
「私と、夏海と、あなたで、楽しい毎日を送りたいわ」
「そう、だな」
だがもしも夏海ちゃんの第一志望校が無事に通ったなら、それは叶わない。
夏海ちゃんは進学のために他県へ出ていき、この家には亜弥だけが取り残されてしまう。
もう、彼女を悲しませたくない。
「どんな形になっても、俺は、君を支えていきたいと思ってる。だから、何か困ったらいつでも呼んで。すぐ駆けつけるから」
膝枕に頭を撫でられながらのこの台詞は少々恥ずかしい。
けれど、彼女の心には多少なりとも響いたようで、嬉しそうにニコニコと微笑んでいた。
「そうね、そうするわ。あなたもいつでも泊まりに来ていいのよ?」
「あはは、いつでもはちょっとな…………」
ともかく今は、亜弥が元気になってくれてよかった。
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