第82話「歌おう」
ひとしきり歌い終わった時の達成感と言うものは計り知れない。
あまり経験してこなかったが、案外カラオケも悪くない。
点数はあまり良くなかったけれど。
夏海ちゃんは、肩をすぼめて部屋の隅っこに座っていた。
オレンジジュースをちびちびと飲みながら、亜弥の独演会に耳を傾ける。
「久しぶりに歌ったけど、結構楽しかったよ。夏海ちゃんもどう?」
「うーん」
まだ迷っているようだった。
こればっかりは自分の意志が大事だし、強制はできないけれど、彼女には少しでも歌うことに前向きになってほしいと思う。
「お母さん、なんでこんなに歌が上手いんだろうね」
「それはわかんない。生まれ持った才能かもしれないし、人知れず努力したのかもしれない。けど、歌っている時はすごく楽しそうだよ。いずれにせよ、歌が好きって思いは大事なんじゃないかな」
「ふーん」
するとさっきまで熱唱していた亜弥の勢いが若干弱まった。声のトーンが小さくなり、少し猫背になっている。
ひょっとしたら夏海ちゃんとの会話が耳に入っていたのかもしれない。
「私の噂話を目の前でされるのは恥ずかしいわ」
「褒めてるんだよ」
「だとしてもよ」
少し頬を紅潮させながら、亜弥は次の曲を入れようとタッチパネルに触れた。
その時だった。
「次、私が歌いたい」
夏海ちゃんが先にパネルを取り、操作する。
どの曲が歌いたかったのかはあらかじめ決まっていたみたいで、スムーズに曲を入れていく。
流れてきたのは、少し前にドラマの主題歌に起用されて流行った楽曲だ。
これを作ったアーティストは、その後新進気鋭の大活躍を遂げている。
「夏海、この曲好きだってずっと言ってたもんね」
微笑ましい亜弥の目線の先には、ガチガチに震えながらマイクを持った夏海が突っ立っていた。
肩はつり上がっていて、表情は固い。
見かねた亜弥は彼女の元に歩み寄り、ポンポンと両肩を優しく叩いた。
「リラックスしないといい歌声は出ないわ。ほら、吸って、吐いて。深呼吸」
亜弥の指示通り夏海ちゃんは深呼吸を行う。
すう、はあ、と3セットほど繰り返すと、落ち着きを取り戻したのかいつも通りのクールな表情に戻っていく。
夏海ちゃんはモニターの音程バーを気にしながら歌っていく。
しかしやはりどこか歌声にぎこちなさが残る。音程を気にしているからなのか、緊張しているからなのかはわからないが、まだ殻にこもっている感じだ。
隣で亜弥が両手でガッツポーズを送るが、夏海ちゃんにそのサインをを見る余裕なんてない。
Bメロに入ってから、徐々に声量が小さくなる。やはり無茶だったか、とハラハラしながら夏海ちゃんを見ていると、亜弥は彼女の隣で優しく微笑んだ。
「大丈夫。夏海の歌、素敵よ。ずっと聴いてたいくらい」
頑張れ、と言葉を締める。
単純だけど、夏海ちゃんには響いたようで、サビに向かうにつれてどんどん声量が上がっていった。
サビに入ると、彼女の感情は爆発し、音程も無視して叫ぶように歌った。
かなりロックな曲ゆえにその歌い方がとても様になっている。
全部歌い切った彼女は、はあ、はあ、と息を切らしていた。
しかしその顔は悩みの種すらなく、スッキリとしているようだった。
点数はあまり伸びてはいないが、夏海ちゃんは気にする素振りも見せない。
「気持ちいいね。歌うのって」
「でしょう?」
誇らしげに亜弥が笑う。
俺も笑った。
そこからは夏海ちゃんと亜弥との対バン、のようなものが始まった。
歌のレベルも、曲の年代も関係なく、お互いが歌いたい曲を歌うだけ。それだけの対バンだったけれど、2人はすごく楽しそうだった。
俺も参加したかったが、彼女たちの勢いについて行ける自信はなかった。
あっという間に退出の時間になった。
あれだけ嫌がっていた夏海ちゃんは「もっといたい」と少し寂しそうにしていたが、これから夕飯の時間だからここでカラオケはお開きにする。
「また来ましょう。今度は2人で」
「うん」
「おいおい、俺抜きかよ」
なんて話をしながら会計を済ませ、外に出た。
よほど遊び疲れたのか、帰りの電車の中で、夏海ちゃんは亜弥の方で眠っていた。
すう、すう、と静かに寝息を立てて気持ちよさそうだ。
「今日はこの子すごく楽しんでたわ。ありがとね、付き合ってくれて」
「いやいや。俺もいいリフレッシュになれたよ」
こんな風に休日を過ごすことなんて最近はあんまりなかったから、いろんなストレスが飛んでいった。
明日からの仕事も頑張れそうな気がする。
「また3人で来ましょう」
「そうだね。今度はもっと体力つけておきたいよ」
「そうね。今日散々歩いたもの、疲れちゃったわ」
ふわあ、と亜弥は小さくあくびした。それが伝染して俺もあくびをしてしまう。
一足早く夢の世界に足を運んだ夏海ちゃんは、幸せそうに口を緩めている。
「お腹いっぱいだよぉ」
夕飯で外食したハンバーグの影響か、どうやら美味しいものでも食べている夢を見ているようだ。
このことを夏海ちゃんが知ったら赤面噴火間違いなしだろう。
「ほら、起きて夏海。もうすぐ着くわよ」
ポンポン、と亜弥が夏海ちゃんの頭を軽く叩き、彼女がそれに応じるように目を覚ます。
とろんとした瞳でキョロキョロ見渡し、また亜弥の肩に頭を置いた。
「眠い」
「そうね。今日は早く寝ましょう」
そう言っている間に、いつもの駅に着いた。
電車を降り、2人をマンションまで送り届け、自分の家に戻る。
自宅に着いてからの記憶は一切なかった。
ただ、幸せな感情に包まれていたことはよく覚えている。
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