元カノの娘

結城柚月

夏海1年生編

"元"彼女との再会

第1話「邂逅」

 真っ黒に塗りつぶされた閑静な住宅街に、ポツンポツンと点在する街灯が明かりを染める。


「はあ」と鈍った息を吐きながら、俺は仕事で疲れた重い足を自宅へと動かした。

 明日は休日だが、特に予定はない。ただ寝て、起きて、身体を休息させるだけの一日。

 35歳にもなると、そんな退屈な休日に何の疑問も抱かなくなってしまった。


 何気なく目を空に向けた。今日は曇っていて星ひとつすら見えない。小さい頃は天体観測が好きだったけど、今はもうどうでもいい。


 何も考えずに歩いていると、あっという間に自宅のアパートまで帰ってきた。

 もうすぐ23時。夕飯は外で済ませたし、あとはシャワーを浴びて寝るだけだ。


 アパートの敷地に入ろうとした瞬間、ぐすん、とどこかで誰かがすすり泣く声が聞こえた。

 聞き間違えではない、確かに聞こえた。急に全神経が研ぎ澄まされる。


 声がしたのは生垣のあたりだ。スマートフォンのライト機能をオンにし、おそるおそる声の方へ近づいていく。


「うわっ」


 生垣の裏で、少女が泣いていた。




 中学生だ。




 見覚えのある制服だったから、この周辺に住んでいることは間違いない。


 ライトに照らされた肌は白く、対照的に彼女のミディアムヘアは暗闇に飲み込まれそうなほど黒く美しかった。

 その後ろ姿に、どこか見覚えがあった。




 …………藤本ふじもと




 そう言いかけて、言葉を飲みこんだ。

 声にしただけで、嫌な思い出が口に広がってしまいそうだから。


 少女は俺の存在に気づいたのか、ゆっくりと後ろを振り向く。

 呆然と突っ立っていると目が合ってしまい、彼女は「ひっ」と声にもならない叫び声のようなものを上げていた。


「あ、怖がらないで。おじさん何もしないから」


 そう笑ったつもりだったけれど、おそらく上手く笑顔を作れていない。


 警察に通報した方がいいのだろうか。

 そもそもこの状況を誰かに見られたらそれこそ自分が警察に突き出されるのではないか。

 いろんなことを考えながら、俺は膝を地面につけ、彼女に微笑みかける。


「こんな時間に何してるの?」

「……ごめんなさい」

「家はどこ? 家出してきたの?」

「ごめんなさい」


 本気で怯えている様子はないが、警戒されている感じは伝わってくる。どうしたものか。


「ごめんなさい、だけじゃ伝わらないから、話してくれないかな」


 少女は下を向き、黙ったままだった。延々と時間だけが流れていく。この状況を他の住人が見たら通報待ったなしだ。とにかく今は穏便に済ませたい。


「……お母さんと、喧嘩した」


 うつむいたまま、少女はポツリと言葉を吐く。


「なるほど、家出か」

「うん」


 今のご時世家ではそこまで珍しいものではない。

 最近では「プチ家出」と呼ばれるものが主流になりつつあるらしいが、彼女のような典型的な家出少女は初めて見た。


 どうしようか、と頭を悩ませたが、やはり放置するわけにもいかない。

 家まで送っていこうか。しかしこの様子を誰かに目撃されたら、誘拐やらパパ活やらで噂されかねない。


 まずは家族と連絡するべきなのではないだろうか。


「お母さんと連絡、取れるかな」

「スマホ、家に置いてきちゃった」

「……そうか」


 となればもう警察に連絡するという手段しか残されていない。気は乗らないが、通報されるよりはマシだ。


 俺はスマートフォンのキーパッドを起動し、近くの警察署に電話をかける。別にやましいことは何一つしていないのに、警察と話しているだけで心が息苦しい。

 少女はその間、とても静かだった。


「あと10分くらいしたら警察の人が迎えに来てくれるそうだから、それで家に帰ろう。いいね?」


 少女は素直に頷く。

 それ以上彼女が何か口を開くわけでもなく、ただ沈黙が流れる。

 妙な緊張感が肌にまとわりついて気持ち悪い。


 どう接してあげたらいいのかわからない。

 なぜ家出したのかはきっとタブーだろうし、せめて名前くらいは尋ねてもいいのではないか。

 いや、どんな質問をしたっても気持ち悪いと思われないだろうか?

 うーん、わからない。どうするのが正解なのだろう。


 結局何一つとして会話がないうちに、アパートの前にパトカーが停まった。中から俺と同じ年代の男の警察官がやってくる。

 アパートのベランダからは、何事かと野次馬たちが次々に顔を出していた。


「あなたですか、通報したのは」

「ええ、まあ」


 警官は疲れたような微笑を浮かべていた。こんな時間に駆り出されるのだから、当然だろう。なんだか申し訳ない気分になりながら、俺は事情聴取に応じる。


 事情聴取が終わって、彼女がパトカーに乗り込んだのは到着してから20分ほどだった。もう母親にも連絡が行き届いているらしい。

 なら安心だ、と思ったのも束の間、パトカーから少女がクイ、と俺のスーツを引っ張った。


「おじさんは一緒に行かないの?」

「え?」


 突然の問いに困惑する。

 自分から口を開くことはなかったこともそうだが、全く関係のない自分が彼女を送り届けてもいいものだろうか。

 ここは警察に一任するべきなのではないだろうか。


 助け船を呼ぶつもりで俺は警官の方を見た。


「こういうのは当事者が説明した方がいいこともありますし、よろしければどうぞ」


 行った方がいいらしい。

 腹をくくり、パトカーに乗る。当然こんな経験は今までの人生で一度もないので、車内はとても居心地が悪かった。


 何も悪いことをしていないのに、パトカーに乗っているだけで生きている感じがしない。

 それは彼女もそうなのだろうか、とチラリと隣に座っている彼女を一瞥する。彼女は動じずにぼうっと窓の外を眺めていた。

 肝が据わっているのか、それともことの重大さを理解していないのか、とにかく彼女の考えていることがあまり掴めない。


 少女を気遣ってか、警官たちは何も話しかけてこなかった。

 こういう時はあまり声をかけない方が正解なのだろうか。それでも気まずい空気は何とかしてほしいところである。


 約10分してパトカーが停まった。どうやら少女の家の近くに到着したらしい。

 少女に続いて俺もパトカーから降りる。


 マンションのエレベーターが5階に止まり、扉が開いた。

 警官2人は少女を引き連れて廊下を歩く。俺はそこから3歩ほど引いて歩いていた。

 なんだか俺だけ場違いのようだ。


 最初に彼女の母親から出てくる言葉は何だろう。

 感謝の言葉だろうか、それともあらぬ誤解をかけられるのだろうか。

 いずれにせよ、警官と対峙した時とはまた別の緊張感が肌にべったりとまとわりつく。


 503号室の表札の前で一同は立ち止まった。ここが少女の家らしい。

 警官がインターホンを鳴らすと、中からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。足音が近づくにつれ、彼女の表情が強ばるのがわかる。


「どこ行ってたの! 今まで散々心配させて!」


 勢いよく扉が開くと、彼女の母親と思しき女性が俺や警官には目もくれず少女を抱きしめる。

 怒号を浴びた彼女からはみるみるうちに涙がこぼれ落ちていった。


「ごめんなさい、お母さんごめんなさい……」


 くしゃくしゃになった表情で泣く母娘を見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 ちゃんと親のところに帰れてよかった。そんな安堵と妙な達成感が、先程までの緊張感を緩和してくれた。


「とにかくもう家に入って。お説教は後にするから」

「はい……」


 この後また叱られるのか、と少女の身を案じると、俺は苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 自業自得ではあるか、強く生きてほしい。


 母親は少女を家の中へと連れ、警察に会釈をする。


「本当に娘がご迷惑をかけて……なんとお詫びすればいいものか」

「いえいえ、私はただ家まで送り届けただけですよ。お礼をするならむしろあの方にしてあげてください。あの子を無事に保護できたのも、彼のおかげです」


 警察は俺の方に手をやった。それにつられて、母親もこちらを見る。

 あの少女を成長させたような整った顔立ち。

 少し染めた暗い茶髪。

 彼女の立ち姿を見て、俺があの少女と出会った時に抱いた疑念は確信へと変わった。




「…………佐伯さえきくん?」




 そう驚く彼女、藤本亜弥ふじもとあやは、俺が中学の時に付き合っていた、元恋人だった。

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