第10話「父親にはなれない」
家庭教師の日になった。
期末テストまで残り2週間程度の時期だ。夏海ちゃんも学校から範囲を貰って来たようだった。やはり俺が推測した範囲とさほど変わっていない。
「じゃあ今日も頑張ろう」
コクリと彼女は頷く。
夏海ちゃんは相変わらず口数が少なくて、表情もあまり動かないけれど、それでも俺が尋ねた時はちゃんと答えてくれるし、嫌われてはいないのだと思う。
授業は基本的に俺が自作した教材を使いながら、学校での進度に従って進めていく。あまり先へ先へ行かず、一つ一つの単元をゆっくり丁寧にやっていく。基本はできるので、応用問題への取り組み方に最も力を入れている。
今彼女は方程式の問題に苦戦している。この単元はいろんな応用問題にしやすい。そのためここで一気に点数を落としてしまう生徒も珍しくない。
「……だから、この場合はここをXにすれば解けるよ」
なるほど、と彼女は呟く。こうした反応があると俺も教えやすい。どこがわかっていて、どこがわからないかが把握しやすいからだ。
1つコツを掴むとあとは簡単だ。夏海ちゃんはスラスラと問題を解いていく。これは期末テストは期待できるかもしれない。
「先生、終わった」
「じゃあ丸つけしていこう」
彼女が答案したプリントに俺が赤ペンで丸をつけていく。俺と一緒に解いたためほとんどが丸だったが、所々計算ミスなどでバツになってしまっている問題もあった。
「最初の頃よりは随分と解けるようになったね」
「そうかな」
「そうだよ。だから自信もって」
この後は間違えた個所を一緒におさらいしていくのだが、そうはさせまいと夏海ちゃんが声をあげた。
「あのっ」
今まで聞いた中で一番大きな声だったと思う。荒ぶった様子ではないけれど、何か強い信念のようなものを感じる。
部屋の中に緊張感が走った。こんなことは初めてだ。
「先生はさ、お母さんのこと、どう思ってるの?」
「…………え?」
夏海ちゃんが何を言ったかを理解するまで、数秒の時間を要した。
まさか、俺が亜弥に恋愛感情を抱いていることを見抜いているのだろうか? だとすると、彼女は俺のことを想っているのだろう。
一気に怖くなって冷や汗が背中から噴き出てきた。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「先生とお母さんって、中学の同級生なんでしょ?」
ああ、それは知っているのか。
俺からそのことを夏海ちゃんに話したことはないので、おそらく亜弥から聞いた、もしくは亜弥本人が話したかだろう。
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「2人はどんな関係だったのかなって思って」
きっと今ここで何か飲み物を口に含んでいたら、思わず全部吹き出してしまうところだっただろう。
正直に言うべきか? いや、俺が亜弥の元カレだと知られれば、ややこしいことになりそうだ。
「別に。ただの友達」
亜弥には結ばれた人がいる。その事実は変わらない。だから昔のことを掘り下げる必要もない。それでいいじゃないか。
しかしただの友達、と口にするのは少し心苦しかった。
たった1ヶ月の罰ゲームだけど、あの時は恋人同士だった。それを自分で否定したような気がしてならない。
「本当にそれだけ?」
「そうだけど、どうかしたの?」
「いや……」
歯切れが悪そうに言葉を残し、夏海ちゃんは俯いた。これでは気になってしまって勉強どころではない。
聞き出すべきか放っておくべきか葛藤していたが、すぐに彼女は口を開いた。
「先生って、お母さんのこと好き?」
「はあ?」
きっと俺の声はこの部屋を貫通して廊下を抜けて亜弥がいるリビングまで届いていることだろう。
やってしまった、と俺はすぐに口元を手で覆った。
「な、なんでそう思うの?」
「何となく。でも先生がお母さんと話す時、そんな風に思ったから」
「マジか……」
自分の中では隠していたつもりなのに、まさか見透かされてしまうなんて。穴があったら入りたい。
しかし、これこそどう答えてやればいいのか、という案件だ。正直に言った方がいいのか、それとも誤魔化した方がいいのか。
「もし、君のお母さんのことを好きだって言ったら、夏海ちゃんはどう思う?」
たどたどしくも彼女に尋ねた。これはもう答えを言ったようなものだろう。
一番嫌なのは、この答えで夏海ちゃんに距離を置かれることだ。
うーん、と夏海ちゃんは悩んでいた。彼女自身もまだ自分の中で答えが固まっていないのかもしれない。
「ちょっと、嫌かな」
まるで雷を撃ち落とされたかのような衝撃だった。
ある程度覚悟はしていた返答だった。しかし、それでもショックの度合いは大きいものだ。家族になりたくても、受け入れてもらえないのだから。
「そっか……」
なぜそう思うのか、なんて聞きたくもなかった。多分、この反応が普通だから。
再婚というのは、前の伴侶に上書きをする行為だ。それが夫婦間で許されたとしても、子供が許さないことだってある。
夏海ちゃんの場合、この子の父親はずっとあの彼なのだ。そこに他人が介入することはできない。
葬式のような重たい空気を打破するように、コンコン、とノックする音がした。
「今日はバウムクーヘンを買ってきたんだけど、どうかしら」
俺達の会話を知ってか知らずか、亜弥は部屋を開け、いつものようにお茶会の誘いをする。正直そんな気分じゃなかった。
「ごめん、急ぎの用事ができたから今日は遠慮するよ」
「あらそう、残念だわ」
俺はそそくさと荷物をまとめる。今はこの場から一刻でも早く脱出したかった。
「ちゃんと今日勉強したところを復習するように」
夏海ちゃんからの問いかけには答えることはできなかった。
ここで「まだ答えを聞いてない」と詰め寄られたら修羅場確定だったのだが、そんなことはなく、彼女は「わかった」とだけ頷いた。
「じゃあ、買い物ついでに送っていきましょうか」
「いやそれもいいよ。今日はありがとう」
スッと立ち上がると、逃げるようにこの家を飛び出していった。しばらくはこの心の傷は癒えそうにない。
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