第123話「なれるよ」
ただいま、と夏海ちゃんが玄関を開ける。
リビングに入ってくるなり、彼女は俺を見て苦虫をすり潰したような顔を見せた。
「なんで先生いるの?」
「あなたの合唱を見に来たからに決まってるじゃない。とても上手だって褒めてたわよ」
亜弥は誤魔化すということを知らないのだろうか。
あれだけ「バレたら怒られるでは済まない」と言っておきながら、堂々とそんな発言をするのが信じられなかった。
開いた口が塞がらない。
この後の怒号を想像すると胃が痛くなりそうだ。
「まあ、そうだよね……そんな気はしてた」
意外にも夏海ちゃんから罵声などが飛んでくることはなかった。
呆れた顔は向けられたけれど。
「そんな気はしてたって、どういうこと?」
「だって雛壇から見えたもん。あーもう、私の発表も見てたんでしょう? あー恥ずかしい」
夏海ちゃんは一切目を合わせてくれなかった。
よく見ると、彼女も耳元まで真っ赤に染まっている。
だから彼女も強く当たれないのだろう。
「嬉しかったよ、ありがとう」
俺がそう言うと、夏海ちゃんはピンと背筋を伸ばし、しばらく動かなかった。
何か地雷でも踏んでしまっただろうか……いや、来るなと言われていた彼女の文化祭に訪れたことそのものが地雷だったのかもしれない。
「…………着替えてくる」
ポツリと呟くように、彼女は部屋を出た。
パタンと扉が閉まり、静寂が部屋を包む。
「殺されなくてよかったわね」
「君も君だよ。もっと誤魔化そうって思わないの?」
一気に疲労感が身体を襲う。
その疲れを抜くように、はあ、と溜息をついた。
同じタイミングで、ピロリンと炊飯器がメロディを奏でる。ご飯が炊きあがったのだろう。
「夕食にしましょう。夏海を呼んできて」
「わかった……」
果たして俺の声にちゃんと応じてくれるだろうか。不安しかない。
だがそんなものは杞憂で終わった。
扉の前で「ご飯だよ」と声をかけると、夏海ちゃんはいつも通りの様子で部屋から出てきた。
「先生も晩御飯食べるの?」
「あ、ああ……」
それ以上彼女は何も言わず、いつもの席に座る。
何事もなくてよかったけれど、まさか亜弥は夏海ちゃんのことを見越して全部ぶっちゃけたのだろうか。
……考えすぎだろう。
テーブルの上にはシチューとコンソメスープ、そして白米が並べられていた。
「今日はね、洋介が料理手伝ってくれたのよ」
亜弥が俺に向けて小さく拍手を贈る。
同じように夏海ちゃんも亜弥の真似をした。
ただ野菜を切っただけなのに、なんだか恥ずかしい。
「いや、俺は大したことなんかしてないよ」
「でも今日はすごく楽だったわ。ありがとう、洋介」
ニッコリと微笑む亜弥を見て、心臓が射抜かれてしまいそうだ。
「先生何やったの?」
「えっと、玉ねぎを切った」
「それだけ?」
「あとは、いろいろ野菜切った」
なんだか答えが小学生みたいだ。
つまんないの、と夏海ちゃんに言われてしまったが、そもそもシチューの作り方はそこまで難しいものではない。
野菜を切って、鍋で煮て、ルゥを投入してかき混ぜればものの30分ほどで出来上がってしまう。
「それよりも夏海ちゃんの話が聞きたい。夏海ちゃん、本当に先生になるつもりなの?」
俺が尋ねると、彼女はスプーンを持つ手を止めた。
ピタリと、まるで魔法で石にされてしまったかのように動かない。
「……ごめん、変なこと聞いたかな」
「いや、恥ずかしい」
夏海ちゃんは顔を赤く染め上げた。
まあ、大まかな理由はあのステージで何となく知ったし、これ以上深く尋ねるのも彼女に酷だろう。
と思っていたのだが、夏海ちゃんは小さい声ながらも、ぽつぽつと語り始める。
「正直まだ迷ってるところはある。けど、職場体験の時、子供たちに勉強を教えたんだけど、わかってくれた時が嬉しくて、それで……」
「なるほど」
今はまだ若い。これからいろんな選択肢が生まれてくるかもしれない。
どんな未来になろうと、選ぶのは自分次第だ。だから、後悔のない選択を選んでほしい。
何はともあれ、どうなりたいという理想像が見つかったのは大きな進歩だ。
それが俺であるのは少々照れくさいけれど。
「夏海、先生みたいな先生になるんでしょう?」
「もう、お母さん! 茶化さないで!」
夏海ちゃんの顔はトマトのように真っ赤だった。
こんな表情をすると、母親としてついついからかってしまいたくなるものなのだろうか。
だけどそのからかいは俺にまで効力を及ぼすからほどほどにしていただきたい。
「なれるわよ。あなたなら立派な教師に」
「本当?」
「ええ。だってあなたは、私の自慢の娘ですもの」
ふふ、と余裕ぶった笑みを浮かべると、亜弥はシチューを口に運び舌鼓を打つ。
やっぱりどうにも彼女には敵いそうにない。
しかし夏海ちゃんも褒められてまんざらでもないようで、口角を上げながらシチューをパクパクと食していた。
なれるよ、きっと。
直接は口にしなかった。俺だって恥ずかしいものは恥ずかしい。
その羞恥心を誤魔化すために、俺はコンソメスープに手を出した。
しかしまだ冷め切っていない中で勢いよく口にしてしまったせいで、すぐにカップから口を離してしまったけれど。
「もしかして猫舌?」
「いや、ただ熱すぎただけ」
「それを猫舌って言うんじゃないの?」
夏海ちゃんがクスリと笑った。つられて、俺と亜弥も笑った。
その日は、食卓に笑いの花が絶えず咲き続けていた。
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