第122話「旦那の話」
文化祭が終わり、俺と亜弥は体育館を出て帰り道を歩く。
「今日、家に寄っていかない?」
「え? いいの?」
俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
同時に、さりげなく俺の右手を掴んでくる。
「言わせないで」
亜弥の声がこもった。
チラリと隣を見ると、亜弥が顔を真っ赤にしている。
家庭教師として彼女の家に訪れるのはもう数えられないくらいあるけれど、それ以外で訪問するのは本当に少ない。
だから、それなりに緊張しているのかもしれない。
現に俺だって緊張している。
「……料理手伝うよ」
「嬉しい、ありがとう」
彼女の握力がほんの少し強くなった気がした。
その後俺達はいつものスーパーに立ち寄り、食材を購入する。
「今日は何にするの?」
「シチューにしようと思ってるのだけど、あなたはどう?」
「お、いいね。最近食べてないから楽しみだ」
ふふふ、と亜弥が微笑む。
「なら張り切らなくちゃね」
そう言うと彼女は買い物かごに次々と食材を入れていく。
鶏肉に玉ねぎ、人参、じゃがいも……ほとんどカレーの食材と同じだ。
違う点はルゥがシチュー専用になっていること、牛乳を使用すること、ブロッコリーも投入する予定ということくらいだろうか。
買い物を終え、俺達は亜弥の家に向かう。
その道中、亜弥は荷物を持ちながら鼻歌を歌っていた。
3年生の全体合唱で歌われた曲だ。
「気に入ったんだ」
「ええ。いい曲よね」
彼女が口ずさむ曲は、元々邦楽として発表されたが、歌詞の内容が卒業というテーマと合致しており、今では卒業式でよく合唱されることが多いそうだ。
確かにこの曲がリリースされた当時、テレビをつけたら音楽番組でよく流れていた気がする。
「夏海たちは来年何を歌うのかしら。今から楽しみね」
「夏海ちゃんは不服そうだけどね。なんでもう1曲やらなきゃいけないのって」
「確かにそうね」
そんな風に談笑していると、あっという間に彼女の家だ。
ガチャリ、と亜弥が部屋の鍵を開け、俺も彼女に続く。
買い物の荷物を冷蔵庫に入れ、夕食の準備をする。
亜弥は先程買った人参やじゃがいもを手際よくカットしていく。
正直、俺の出番はなさそうだが、手伝うと言った手前何かしなければならない。
「玉ねぎ切るよ」
「あら、涙が出ないように気を付けて」
「わかってるよ」
と言っても、実はスライスするくらいなら漫画でよくあるような展開にはなりにくい。
それは大学時代の自炊生活が教えてくれたし、最近も休日はたまにだが自炊するようになったので、それを思い出した。
水の入ったステンレスの鍋にじゃがいもと人参を投入し、ぐつぐつと茹でる。
その間亜弥はブロッコリーを細かく切っていった。
「あの人もたまにこうして料理を手伝ってくれたの」
彼女はそう言った途端、ハッと目を見開き、俺を窺う。その表情は、なんだか少しだけ怯えているようだった。
「……ごめんなさい、あなたがいるのに、旦那の話をして」
「いや、いいよ。むしろ聞きたい、旦那さんの話」
不思議と、嫉妬の感情は沸いてこなかった。
前までなら多少なりとものそう言ったどす黒い感情が滲み出てきていたのに。
おそらく、今までの関係より一歩を踏み出せたから、旦那さんと対等になりつつあるからだろうか。
いいの? と亜弥は尋ねる。もちろん答えはイエスだ。
知っておかなければ前に進めない。
そう、と呟いて亜弥は話し始める。
「夏海を産んですぐの頃だったわ。私、風邪をひいてしまったの。多分慣れない育児にストレスが溜まって身体が弱ったところにウイルスがやってきたんでしょうね。熱も40度近く出て、あの時は死を覚悟したわ。でも俊は私の分まで夏海の世話をしてくれて、私にはおかゆを作ってくれて、あんまり食べられなかったけど、あの時のおかゆの味は今でも忘れられないわ」
いつの間にか亜弥の手が止まっていた。
それと同時に、ポロポロと彼女の目から涙がこぼれ落ちていく。
「ごめんなさい、昔のことを思い出していたら、懐かしくなっちゃって、つい」
「いや、俺が話してって言ったから」
彼女は首を振った。
「あなたは悪くないわ。私がセンチになってただけだから。心配かけてごめんね」
いつものように笑おうとするけれど、上手く表情が作れていない。
やっぱり亜弥の心の中には、旦那さんが常にいるのだろう。
だけどその感情を持つことは当然のことだ。
互いに愛を誓い合った相手なのだから、つい過去に耽ってしまうのもわかる。
逆に、覚えていてあげるべきなのだとも思ってしまう。
だから亜弥は何も間違っていない。
ただ、俺にできることがあるとすれば。
俺は玉ねぎを切っていた包丁を置き、ぎゅっと優しく彼女を抱きしめた。
思えば、彼女を抱きしめたのなんていつ以来だろう。
デートもあまり行けていなかったし、こうして二人きりになる機会も少なかった。
「ちょ、ちょっと、何?」
亜弥は困惑の表情を隠せないでいた。が、俺は構わず彼女を抱きしめる。
どう声をかけていいのか思い浮かばなかったから、というか、彼のことを覚えていてほしいというのは既に伝えているはずだし、彼女もそれをわかっていると思うのであえて何も言わないことにした。
最初は戸惑って少しじたばたしていたが、10秒もしないうちに彼女の身体から力が抜け落ちていくような感覚が伝わってきた。
やがて俺に全てを委ねるように、亜弥のぬくもりが伝わってくる。
「……ありがとう、洋介」
「俺ができること、これくらいしか思い浮かばなかったから」
「ううん、これでいい。これだけでいい。他には何もいらない」
そう言われると嬉しくなるものだ。
彼女が手を握ってきたときのように、俺もぎゅっとほんの少し力を込めた。
亜弥の温かさを噛みしめるように。
「でも、次こういうことをするときはちゃんと手を洗ってからにしてくれる? 今回は許すけど、次私の服が玉ねぎ臭くなったら許さないから」
「ご、ごめんなさい……」
俺は咄嗟に亜弥から離れ、慌てて蛇口をひねる。
そんなところまで考えていなかった。ロマンチストにもほどがある。
なんだかさっきの行動が全て恥ずかしくなってきた。数分前の自分を1発殴りたい気分だ。
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