第103話「生まれた意味」

 焼そばを食べ終えた俺達は、しばらくパラソルの下で時間を持て余していた。

 あまり乗り気ではなかった夏海ちゃんはともかく、あれだけはしゃいでいた亜弥もビニールシートの上で座っている。


「海、泳がないの?」

「疲れちゃった。あなたが泳いでくれるなら考えてあげてもいいけれど」

「無茶言うなよ」


 冗談よ、と笑いながら亜弥は立ち上がった。


「飲み物切れちゃったから何か買ってくるわね」

「気を付けて」


 彼女は微笑むと、海の家近くにある自販機に向かった。

 海の家でもドリンクは一応売られているものの、結局自販機で勝った方が安い、という謎の現象が起きている。

 まあ海の家のドリンクは自販機にないメニューが多いのでそこで差別化を図っているのだろうけれど。


「この海さ、お父さんとお母さんが出会った場所なんだって」


 ざざーん、という波の音をBGMに、夏海ちゃんが水平線を見つめながら語りかけてきた。


「知ってる。この前亜弥から聞いた」

「でも変だと思わない? お父さんとお母さんがこんなビーチで出会うなんて」


 言われてみればそうだ。

 この場所は県内でもかなりの人気の海水浴場としても知られている。

 以前亡くなった旦那さんの写真を見たことがあるが、とても穏やかな顔つきをしていて、失礼かもしれないがこういう騒がしい場所はあまり似合わない雰囲気があった。


「まさか、罰ゲームから付き合ったとか?」

「違うよ。お父さん、ナンパされてたお母さんを助けたんだって、それがきっかけで2人は付き合うことになったって、この前お母さんが言ってた」

「そうなんだ」


 なんだか素敵な出会いだな、と思いながら、俺もキラキラと輝く水平線を眺めた。

 だけどこの出会いがなかったら、きっと夏海ちゃんはこの世にいなかった。そう思うと、亜弥と旦那さんが出会ったのは運命なのかもしれないと思える。


「それにしてもお母さん遅いね」

「亜弥のことだから、どれがいいのか迷ってるんじゃない?」

「でも自販機だよ? そんなに迷うかな……」


 海の家のメニューに目移りしているのならまだ何となく理解はできるが……。

 嫌な予感がする。


「夏海ちゃん、ちょっとここ見張りよろしく」

「気を付けてね」


 俺は自販機の方に亜弥を探しに行った。

 成人女性である彼女が誘拐される、という可能性は低いと考えているが、何か事件に巻き込まれている可能性もゼロではない。

 何事もなければいいのだが。


「亜弥ー、どこだー」


 周辺に声をかけるも、彼女からの返事はない。自販機にもいなかった。

 ますます不安が募っていく。


 その時、自販機から少し離れた方にちょっとした人だかりができていた。

 4人から5人の男性が何かを取り囲んでいるように見える。

 特段珍しいものではないが、なんとなく、違和感を覚えた。


 俺は彼らの方に近づく。


「いいじゃないですか、この後どうですか?」

「ですから、娘がいますので」

「じゃあ連絡先だけでも」


 信じたくはなかったが、亜弥が数人の男性からナンパされていた。

 いつものように亜弥は毅然とした態度で振る舞うが、このナンパ師たちはしつこく彼女に詰め寄ってくる。


 相手の年齢は20代後半から30代前半、といった具合で、いい大人が何をやっているんだ、と少し呆れかえってしまう。


 それにしても氷モードの亜弥に動じずナンパを仕掛けてくる彼らの図太い精神だけは褒めてやりたい。

 それかただの馬鹿のどちらかだ。


 だがこのままだと埒が明かない。

 娘がいる、と言うワードを出しているにもかかわらず彼らは構わないと言わんばかりに彼女をしつこく誘っていた。

 そんな姿を放っておくわけにもいかない。


「あ、いたいた。探したよ」


 俺は彼らの中に割って入り、亜弥の右手を掴んだ。

 当然、ナンパ師たちはいい顔をしない。怒りの表情を俺にぶつけてくる。


「老いなんだよおっさん、引っ込んでろ!」

「お前らこそ人の女に手ェ出して、ただで済むと思ってるのか?」


 負けじと、俺も睨み返した。

 こいつらに対して何か有効な策があるわけでもない。

 ただ、彼女が目の前で盗られていくのが許せなかった。それだけだ。


「行こう」


 俺は亜弥の手を引っ張って、彼らの間を潜り抜けた。

 彼女もなんとか手を離さずについて来てくれて、ナンパ師たちから逃げることができた。

 追いかけて来ると思っていたのだけれど、そんなことはなくあっさりと逃げることができた。


 ビーチパラソルまで駆けて戻ってきた。

 はあ、はあ、と息を切らす俺達を見て、夏海ちゃんはぎょっと声を漏らす。


「2人ともどうしたの?」

「ちょっとトラブルに巻き込まれてね……でも大丈夫、解決したから」

「本当?」

「多分」


 正直あの場から逃げただけで根本が解決されたわけではない。

 これ以上彼らとの接触がないことを祈るだけだ。


「で、いつまで手、繋いでるの?」

「あっ」


 夏海ちゃんに言われてやっと気付いた。

 恥ずかしくなって、とっさに彼女に手を離してしまった。

 こうやって手を繋いだのは、3月に彼女とデートしたあの日以来だろうか。


 亜弥は俺が握った手を見つめて、胸に当てていた。

 なんだかこういう反応が初々しく見える。


「……何があったの?」

「なんでもない。それよりこの後どうしようか」

「じゃあ私、ちょっと泳いでくる。先生はお母さんとゆっくりしてて。それじゃ」


 言い返す暇も与えず、夏海ちゃんはそそくさとビーチボールを持って海辺に駆けだしていった。


 まだ、さっきの感触が忘れられない。

 彼女の手を握ったのはこれが初めてではないはずなのに、どうしてか少し緊張してしまう。


 そんな俺の右手に、彼女の左手が優しく触れた。俺の小指に、彼女の人差し指が絡んでくる。


「その……ありがとう。とてもカッコよかったわ」

「お、おう……」


 それ以上何も言えず、俺達はただ海を眺めながら手を取り合った。

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