第112話「無限大」

 聖良さんの大食いは健在だった。

 サンドイッチやおにぎり、その他おかずで詰め合わさっていたランチボックスを、いとも簡単に平らげてしまう。

 まあ、俺と亜弥だけでは食べきれる量ではなかったため、聖良さんがいてくれて助かった部分はあるが、食事のことになると相変わらず遠慮がないのはいかがなものかと思ってしまう。


「やっぱり美味しいね、亜弥さんのお料理」

「でしょう? 落ち着いたらまた遊びにいらっしゃい。いろいろ料理教えてあげるわ」


 そんな約束を簡単にしてもいいのだろうか。

 今年のバレンタインでは戦力外通告を受けてもおかしくないレベルでのポンコツっぷりを発揮していたはずだ。


 しかし当の本人は目をキラキラと輝かせながら亜弥を見る。


「嬉しい! 実はね、最近空いた時間に料理を勉強しようと思って、いろいろ頑張ってるんだけど、なかなか上手くできなくて」

「あら、何作ってるの?」

「目玉焼き。どうしても上手に割れなくて、殻が入ったりぐしゃぐしゃってなったりする」


 ピタリ、と亜弥の身体が固まった。

 おそらく想像していた料理より遥か下のものが出てきたからではないだろうか。

 あと、上手に焼ける焼けない以前の問題だからというのもあるだろう。


「ああ、そう……」

「だから上手に卵を割るにはどうすればいいか、教えてもらいたくて」

「そうね……余計な力を加えないことが重要だと思うわ」


 なるほど、と聖良さんは相槌を打つ。

 確かに彼女が料理下手である所以は、その力加減が上手くコントロールできていないところにある。

 力加減がそこまで重要ではない作業に関しては、あまり不得意という印象はなかった。

 つまりこれさえこなしてしまえば料理のスキルはかなりレベルアップするとも言える。


 それにしても、聖良さんといい、亜弥といい、苦手なものにも果敢に挑戦しようとするその心意気は見ていて感心してしまう。

 俺だったら自分の情けなさや無力さに耐えられなくて逃げ出してしまうかもしれない。

 本当にこの2人は強い。


 3人で談笑を続けていると、夏海ちゃんがひょっこりとやってきた。

 手に持っている包みの中は、おそらく彼女のお弁当箱であろう。


「お母さん、これ」

「あ、はいはい。お弁当どうだった?」

「うん、美味しかった……」


 少し顔を赤らめて、彼女は右手で口元を隠す。

 あまりこういうことを言いたがらないお年頃だ。少し微笑ましく見える。


「あ、夏海ちゃん久しぶり。元気にしてた?」

「えっと、先生の……」

「そ、前に佐伯さんのところで働いていた水野聖良でーす。君の担任の妹やってまーす」


 すこし酔っぱらったように聖良さんは朗らかな声で夏海ちゃんに声をかける。

 さすがに夏海ちゃんも戸惑いの色を隠せていない。


「聖良さん、少し酔ってる?」

「酔ってない酔ってない」


 否定するように彼女は手を振ったが、どうだろうか。

 まあアルコール臭はしないので本当に飲んでいないのだろうが。

 しばらく見ないうちに随分とキャラが変わったなあ、と思う。

 昔はもう少しおしとやかな雰囲気があったのに、今はおっさんかと声にしてしまいたくなるような言動がチラホラと目立つ。


「あ、最近変な人に絡まれたんでしょう? 大変だねえ。何かあったらいつでも頼っていいよ」

「あ、はい、えっと、絡まれたのは、私じゃなくて、私のははなんですけど……」

「そういえばそうだったね、あははははは!」


 豪快に聖良さんは笑った。やっぱりキャラ変したな、と俺も戸惑ってしまう。


「他人事のようですけど、あなたも教師になったらこういう親の対応もしなければならないんですよ」

「わかってます。それがすごく大変な業務だということも」

「本当ですか?」

「クレーム処理、大変でしたよね?」

「ああ……」


 俺も仕事柄保護者からクレームを受けることがある、講師に酷いことを言われた、成績が上がらない、生徒間でトラブルが起きている、など、こちら側に完全な非があるものと、言いがかりとしか思えないもの、さまざまだ。

 聖良さんは、そんな俺のクレーム対応の様子を見ていたというのだろうか。


「大変な仕事だというのはわかってます。でも、ずっとやりたかった夢なんです。一度は諦めてしまった夢だけど、せっかく掴み取ったチャンスだから、どんなことがあっても絶対に負けません」


 力強く、聖良さんは笑った。この表情は、俺が知っている彼女だ。


「その意気です」

「応援しているわ」

「はい!」


 聖良さんの宣言に、夏海ちゃんはなぜか小さく拍手をしていた。

 パチパチパチ、とゆっくり、おお、と小さな歓声を上げながら。


「すごいなあ、やりたいことがあって」

「夏海ちゃんにはないの?」

「うーん、バレー以外やりたいことは特に」

「じゃあ将来はバレー選手?」

「どうなんだろう。バレーは好きだけど、プロになりたいかって言われたらちょっと違う気がする。よくわかんない」

「そっか」


 すると聖良さんは優しく夏海ちゃんの手を握った。


「今、どういう自分になりたいかを想像したって、それがその通りになるとは限らない。未来は無限大なんだ」

「無限大?」

「そう。もしかしたら夏海ちゃんは10年後には普通に会社員として働いているかもしれないし、バレーの選手になっているかもしれない。もしかしたらアイドルやモデルになっているかもしれないし、何かの会社の社長になっているかもしれない」

「まさか」

「そのまさかが実際にあり得るんだよ」


 その言葉は、さっきまでの酔いどれモードではなかった。

 まっすぐで、真剣な、塾講師時代の彼女そのものだ。


「私は塾講師になる前、数年間会社員をしてたけど、人間関係で仕事を辞めて、人間不信になっちゃって。でも塾講師をしていくうちにやっぱり教師になりたいって思うようになって、そして、今の私がいる。10年前なんかこんな風になるなんて全く思っていなかったよ。だから、もっといっぱい未来を見つめてみて。思いもしないところに答えはあるかもしれないから」


 はあ、と夏海ちゃんは今一つ要領を得ない返事をした。


「あれ、響いてないかな」

「いや、よくわかんなくて」

「……そっか。まあ、いずれわかる日が来るかも」


 そろそろ午後の演目が始まる。

 夏海ちゃんはその準備に向かうようで、俺達のいるテントから離れた。


「ところで、職業体験はどこにいくんだろう」

「小学校ですって。仲のいい子が小学校に行くから、っていう理由で」

「小学校か……」


 まあ、教育実習のようなことはしないだろうけど、それなりに大変だと思う、という予想は俺が小学校の頃のおぼろげな記憶がそう告げている。

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