第25話「新学期」

 夏休みが終わり、2学期が始まった。


 新規顧客獲得のために躍起になっていた塾の中も少しだけ落ち着きを取り戻していた。

 学校初日の生徒たちは、夏休み明けということもあって少し疲れているようだった。ぐだっと机に寝そべったり、そのまま眠ってしまう子供もいつもより多く見かける。


 夏海ちゃんも夏休み最後の日曜日はとても不機嫌そうだったな、なんて数日前のことを振り返る。


 とにかく夏海ちゃんは不機嫌だった。感情には表れていなかったけれど、オーラからそう感じる。まるで「夏休みを延長しろ」と訴えているようだった。

 さらに俺が作ったテストにも不機嫌な顔を見せた。こちらの方がより嫌悪の表情が出ていたと思う。


「そこまで難しくないと思うから、やってみよう」


 最初に学力を測るために作った問題と同じく、1時間で5教科できる程度の問題量だ。

 やはり毎週の授業のおかげか、夏海ちゃんはスラスラと解いていた。

 だから最初のものよりも問題数を増やし、難易度も少し上げたのだが、それでも問題ないようだった。


「出来た」


 時間内に夏海ちゃんは全て解き終えた。これは随分と大きな進歩だ。

 もう俺の授業はいらないかもしれない、という安堵感とちょっとした心配が心に積もる。


「よし、じゃあ解説していくよ」


 いつも通り、間違えたところの解説をしている。しかし応用問題を除けばほぼ全て正答しているので、本当に賢くなったな、と実感した。


「先生、今日の応用問題難しすぎない?」

「そうかな。夏海ちゃんならこのくらいできると思ったんだけど」


 作り方は普段と変えていない。基本問題から入試レベルまで、幅広く取り寄せたつもりだ。

 それに基礎はばっちり理解している。やっぱり彼女はかなり成長しているようだ。


 2学期からは学習内容も本格的に難しくなってくるから、ちゃんとついてこれるか不安だけれど、まあ夏海ちゃんなら大丈夫だろう。


「先生? 佐伯先生?」


 考えことで自分の世界に浸っていたところ、受け持っていた生徒の江上えがみさんの声で我に返った。

 普段の担当は水野先生だが、この日は用事があって来られないらしく、代わりの先生もいないため俺が代理で授業を見ている。


「解き終わりました」

「ああそうか。じゃあ丸つけをしよう」


 俺が指示を出すと江上さんは黙々とノートに赤ペンで丸をつけていく。

 問題集はあるが、もう一度振り返って勉強させるために直接書かせるのではなく、ノートに問題集の答えを書かせるのがこの塾でのルールだ。


 丸をつけ終わると江上さんは次のページに進む。

 彼女はまだ中学1年生だが、この塾の中でもかなり頭のいい部類に入る。そのためいつも授業の進みはよく、学校よりも先に進み過ぎてしまうくらいだ。


 彼女が解き終わったと同時に授業終わりのチャイムが鳴る。


「じゃあ今日やった範囲の、まだ手を付けていない問題。それが今日の宿題」

「わかりました。ありがとうございます」


 ペコリと江上さんは頭を下げ、塾を出る。彼女と入れ替わるように、他の生徒が続々と塾に押しかけてきた。

 この時間帯からは学校や部活が終わってその帰り道にここに通う生徒が多い。そのため今が一番ピークとも言えよう。


 俺は次の授業の準備をしながら、塾長本来の仕事である雑務もこなす。塾長のPCと生徒との席を行きかう間に生徒たちと会話をすると、このハードワークも苦ではなくなる。


 これをあと2コマ凝り返すと、疲労よりも空腹感が勝る。

 いつものように生徒たちを見送り、講師たちに連絡事項を伝え、戸締りを確認して塾を出ると、最寄りのコンビニで晩御飯を買った。


「新学期か……」


 夜道を一人、ポツリと呟く。

 社会人になってから、新学期なんて概念はほとんどなくなった。

 この仕事をしている以上他の社会人と比べたらまだ関わりはある方だと思うが、それでも長期休暇中の生徒たちを見ていると、やはり羨ましく感じる時が多々ある。


 俺も学生時代は長期休暇が近づくと少しワクワクしていたし、それが終わりを迎えると少しがっかりしていた。

 けど学校に行くと、久しぶりに顔なじみに会えて嬉しくなったもんだ。

 当時は今のように連絡手段もそこまで普及していなかったから余計に。


 昔を懐かしんでいる間に自宅に着いた。

 中学や高校のあれやこれやを思い出しているところに現実という名前の扉が目の前に出現する。

 過去に浸る時間はとりあえず終わりだ。


 俺はドアを開け、荷物を置き、スーツからラフなジャージ姿に着替えると、買ってきた弁当にありついた。


「美味い」


 いつも食べるものとは違うラインナップだったが、これもこれで悪くない。肉と白米のバランスが丁度いい。


 全て食べ終わると、ふと亜弥の顔が浮かんだ。

 俺が家庭教師から帰る時、買い物のついでにと彼女はよく一緒にスーパーまで着いてくる。

 家庭科が散々だった亜弥は長い年月を経て料理上手という称号を得た。しかし俺はまだ彼女の手料理をクッキーやアップルパイ以外で食べたことがない。


「……食べてみたいな、亜弥の手料理」


 しかしそんな機会は訪れないだろう。なんせ俺達はただの元クラスメイト。それ以上でもそれ以下でもないし、そんな関係になれる出来事なんてそうそう起こり得ない。


 理想と現実のギャップに胃もたれを起こしそうだ。

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