第26話「亜弥と、佐伯と、水野」

 おそらく、夏海ちゃんに「もうすぐ体育祭だね」と尋ねたことがきっかけだったのだろう。


 夏海ちゃんの学校はまもなく体育祭を目前にしていた。

 例年通りに開かれるなら、次の土曜日に開催される。


 俺がこう尋ねたのは、体育祭で疲労しているのにその次の日に家庭教師で勉強するのは少し酷ではないか、と思ったからだ。

 だからこの後は「次の日曜は休みにしようか」と夏海ちゃんに訊こうとしていたのだが、やはりこの未来のスターは一味違っていた。


「先生は、見に来てくれないの?」

「はい?」


 バレーに続いて学校の体育祭まで彼女は誘ってきた。相変わらずその真意が読めない。


「いや、ちょっと遠慮しておこうかな」

「なんで? お仕事はお休みでしょ?」

「ま、まあそうなんだけどね」


 嘘が苦手な俺は、ここで「仕事がある」なんて言えなかった。


 俺は極力学校の行事ごとには関わらないようにしている。それは自分が学校とは全くの無関係だからというのもあるが、一番は生徒のプライバシーに必要以上に踏み込まないと決めているからだ。

 塾に来ている生徒の中には、親に連れられて渋々授業に参加している子供も存在している。そんな生徒は、塾と関係のない時まで講師に会いたくはないだろう。


 ということを夏海ちゃんに説明したら、彼女は肩を落としてシュンとなってしまった。


「そっか……先生にもいろいろ苦労があるんだね」


 なぜ俺は慰められているのだろうか。

 しかし萎れていた夏海ちゃんはすぐに元気を取り戻す。


「じゃあさ、関係者が学校にいるっていうことにすればいいんじゃない?」

「無茶苦茶言うなあ」


 それなら問題はない、と信じたいが、やはり問題は避けたいところだ。安全なのはやはり行かないことだろう。


「やっぱり、ちょっと厳しいかな」

「そっか。じゃあ仕方ない」


 そう言って彼女はまた勉強に取り掛かる。しかし夏海ちゃんの背中はやはりどこか寂し気な感じを漂わせていた。




 そして土曜日。

 俺は夏海ちゃんが通う中学校に足を運んでいた。


 別に夏海ちゃんや、ましてや亜弥に会いに来たわけではない。ただ、あの時の夏海ちゃんの背中があまりにも悲しかったから、ちょっと気になってしまった。

 夏海ちゃんが活躍している姿をチラッと見たらそれだけで帰ろう。


 そう思っていたのに。


「あれ? 塾長じゃないですか」


 声をかけたのは水野先生だった。どうしてここに、と思ったが、そういえば水野先生のお兄さんがここの教師だということを思い出した。


「どうしてここにいるんですか?」

「友人に誘われまして。水野先生はお兄さんの応援ですか?」

「ええ、そんなところです。それよりその友人って、前に話していた初恋相手なんですか?」


 この場所でそんな話をするな、と声を大にして言いたくなったが、それこそ周りにバレてしまうし、迷惑がかかる。

 恥ずかしさを押し殺し、俺は口元で小さくバツを作った。


「その話はあんまり言わないでください。恥ずかしいんですから」

「そうなんですね。ちょっと可愛いです」


 フフッと笑う水野先生はなんだか小悪魔のようだった。


 そこにまた俺の知った声が聞こえてくる。


「あら、あなた来ないって言ってたじゃない」


 いつもロングスカートを履いている亜弥だったが、この日は珍しくジーンズ姿だった。たまにしか見られないので、少しお得な気分だ。


「夏海ちゃんが寂しそうにしてたから。すぐに帰るよ」

「そんなこと言わずに最後まで見ていったらどう? それで、そちらの方は?」


 亜弥が水野先生の方を見る。水野先生も少し困惑しているようだった。


「ああ、職場の水野先生だよ」

「初めまして、水野です。兄がこの中学に勤めているもので」

「ということは、水野先生の妹さんですか?」


 水野先生、というワードが2つも出てきてややこしくなる。

 俺が指したのがこの場にいる水野聖良で、亜弥が言っているのはその兄の方だ。


「兄をご存じなんですか?」

「ええ。娘の部活の顧問をしているので」

「そうだったんですか」


 なんだかいつの間にか2人は仲良くなっている。このコミュニケーション能力の高さは俺も見習いたい。


「それで塾長、この方が塾長の仰っていた中学時代の同級生ですか?」

「え、私のこと話したの? 佐伯くん」


 亜弥に詰め寄られ、少し俺はたじろぐ。別にことが大きくなるようなことは言っていないつもりだ。

 言ったことは、亜弥が俺の中学の同級生だということ、そして俺が彼女に淡い恋慕の感情を抱いていること、ということだ。

 まあ後者は水野先生が口にすることはないだろうから、安心だ。多分。


 いや、待て。


 そもそもなぜ水野先生が亜弥のことを知っているかと言うと、彼女と2人で飲んだときに好きな人の話題になった際ついポロリとこぼしてしまったからだ。

 名前は出していないが、ここで出会ってしまったのならもう意味はなさない。


「この前学生時代の話で盛り上がって、その時につい。面白いやつがいたって」

「ちょっと、私至って普通の学生してたと思うんだけど、勝手に捏造するのは止めてもらえるかしら?」


 どうしよう。万事休すかもしれない。

 助けてくれ、と俺は水野先生に目配せした。話を合わせてくれるだけでもいい。とにかくこの場を乗り切りたかった。

 しかし彼女はわかっていない様子で、キョトンとした目で俺達を見つめてくる。


「仲が良くて羨ましいです」

「そういうことはいいから。あ、それより次の演目始まりますよ。客席行きましょう」


 俺は逃げるように保護者席に向かう。

 もう、と亜弥は納得いっていない様子だったが、それ以上の言及はなく、俺の後を水野先生と共に付いて行く。


 保護者席は校区ごとに分かれているが、どこもかしこもビニールシートは埋まっていた。仕方がないので保護者席の後ろの方で立って見ることにした。

 生徒アナウンスが次の演目を報せる。1年生対抗の選抜リレーだ。


 曲と共に選手たちが駆け足で入場する。その隊列の中に、夏海ちゃんの姿があった。

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