未来の見つめ方
第109話「からっぽ」
それから何事もなく2学期が始まった。
だからと言って俺達の生活の劇的な変化が訪れたかと言われれば、そうではない。
平凡な毎日が流れていくだけだ。
「先生、今年の体育大会なんだけど」
「お、見に来てほしいの?」
「まあ、うん。そんな感じ」
いつものように家庭教師をしていると、夏海ちゃんが少し顔を赤く染めてきた。
照れを誤魔化すようにシャープペンシルの速度が少し早くなる。
最近彼女は誤魔化す時にこういうことをするようになった。
そっぽを向いて顔をこちらに見せないのが何よりの証拠だ。
耳まで真っ赤になっているので、隠さなくてもいいのに、と少し思ってしまう。
「なんで恥ずかしがってるの?」
「いや、先生誘うの、なんかちょっと、恥ずかしい……」
彼女はシャーペンの手を止めて、顔を両手で覆った。
恥ずかしさのメーターが一定に達するとこういう風にオーバーヒートしてしまうのも、彼女の可愛いところだ。
「あんまりいじめてあげちゃダメよ」
部屋のドアの向こうで亜弥が腕を組んでいた。
はあ、と溜息交じりの彼女の声に、俺と夏海ちゃんはびくりと背筋を伸ばしていた。
まだお茶をする時間にはなっていないはずだ。
「……なんでいるの?」
「ちょっと夏海に聞きたいことがあってね。夏海、職業体験の希望調査、出した?」
「いや、まだ考えてる」
亜弥の言葉に、再びシャープペンシルを走らせた夏海ちゃんの手が止まった。
「希望調査?」
「そう。本当は夏休み明けてすぐに出さなきゃいけないんだけど、この子、まだ出してないのよ」
少し心配した様子で亜弥は説明してくれた。
職業体験は10月の末に3日間行われるそうで、その職場を夏休み中に決めておかなければならなかったらしいのだが、夏海ちゃんは夏休みが明けてしばらく経ってからもまだその調査票を提出していなかったらしい。
早くしないと希望通りの職場にならず、保護者、そして教員サイドはかなり焦っているようだ。
しかし当の本人はあまり意に介していない様子だ。
「だって、どこに行きたいとか正直ないから」
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ。授業の一環でやるんだから、早いところ決めておかないと大変なことになるの。早く決めちゃいなさい」
「うーん、先生のところはダメ?」
夏海ちゃんは俺の方を見て尋ねてきた。
「ダメだなあ。俺の職場、大体夕方から夜にかけてやってるから、その時間帯で中学生に働かせるのはちょっと無理だし、何よりやってもらうことがない」
「そっかあ」
うーん、と彼女はさらに頭を抱える。
以前、亜弥が夏海ちゃんのことを「将来のビジョンが見えていない」と評していたことを思い出した。
その時は「中学生なんてそんなもんだろ」と軽く受け流していたが、この状況を見て少し考えが変わった。
あまりにも見えていなさすぎる。
「何かないの? 将来やりたいこととか」
「ない」
「どういう人になりたいとか」
「わからない」
「じゃあ、自分の興味あることは?」
「バレー以外にはない」
……ひょっとして彼女は俺が思っていた以上に脳筋なのではないだろうか、という疑惑が浮上した。
勉強や運動はできるが、それ以外のことは何一つない、ある意味からっぽの人間。
ちょっと、これは大変なことになりそうだ。
「この職業体験ですべてが決まるわけじゃないんだ。友達と一緒のところにしたらどうだ?」
「そんな風に決めていいのかな」
「君が将来やりたいことがなければ、もうそうするしかないところまで来ているよ。君が将来どうなりたいっていうビジョンが明確にあるのなら話は変わってくるけど」
むむむ、と夏海ちゃんはまたしても頭を抱える。
そこまで悩むことなのか、と俺の方が頭を抱えそうだ。
「……わかった、そうしてみる」
本当は、こんな決め方をしてはいけないのだろう。だけど、ここまできたらこうするしかない。
ドアの向こうに立っている亜弥もはあ、と大きな溜息をついた。
「もう少し、自分のことに興味を持ちなさい。今のあなたを見ていると、少し心配になってくるわ」
「だって、今が楽しかったらそれでいいんだもん」
「今はそれでいいかもしれないけど、将来困るわよ」
まったく、とブツブツ言いながら亜弥はキッチンの方に戻っていった。
ふんわりとタルトの匂いがする。
夏海ちゃんはシャーペンを持つことはせず、何かを考えるようにじっと机を見ていた。
「私、何になりたいんだろう」
そんなこと、俺が知るはずもない。
そもそも中学生の彼女に答えなんてわかるわけがない。
中学生で描いていた理想像は、時が経つにつれて変わっていくことだって珍しくもなし、なんならその方がマジョリティだ。
中には幼少からの夢を一途に追い続け、叶えた人だってもちろんいるが、それはほんの一握りに過ぎず、やっぱり今どうなりたいか、という考えなんて将来を振り返ってみても全然何のあてにもならない。
だけど、この時点で何も考えていない、というのも中々おかしいところはある。
こんな風に夏海ちゃんがからっぽなのは、父親がいなくなったから、と言うのが原因ではないと信じたい。
これは、本人自身の問題だ。そして、これを解決するのも夏海ちゃん自身だ。
「まあ今はいっぱい悩もう」
今の彼女にはそんな言葉しか言えなかった。
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