第40話「優しさ」
深い溝が出来ても、スーパーまで一緒に行くこの恒例行事も変わらなかった。
変わったところを挙げるとするならば、弾んだ会話が何一つないということだろう。
「あの」
マンションから少し離れて、彼女が口を開く。
「この前は、その……酔ってたから、変なこと言っちゃって、本当にごめんなさい」
「いや、俺の方こそ、ごめん。あの時はどうかしてた」
もう一度謝るが、多分彼女が言いたいのはそんなことではない。
こんな表面的なことをやっても、俺達のわだかまりは解消されない。
気まずい空気が肌にまとわりつく。
「佐伯くんは、どこまで本気なの?」
彼女の言葉が俺の足を掴む。心臓が掌で握り潰されるような、そんな圧迫感を感じた。
亜弥は俺の少し前で返事を待っていた。振り返らず、俯いているその後ろ姿が、儚くて美しかった。
言葉が喉の奥に引っかかる。けれど、ここで誠意を示さなければ男ではない。
「全部、だよ。俺はずっと君のことが好きだったし、また会えて嬉しかった。だから、この関係を壊したくなかった……」
俺は今まで抱いていた彼女への想いを吐露する。
自分の感情を言葉にすると、今まで抑えていたものが体の芯から溢れたして止まらない。
多分、体内からこぼれ落ちた感情が涙になって出たんだろう。俺は目元を拭いながら、途切れ途切れになりつつある言葉を紡ぐ。
「けど、俺は君と一緒にいたい」
身体中から捻りだした、嘘偽りのない心からの言葉だった。
亜弥の傍にいたい。
亜弥の隣にいたい。
亜弥と同じ時間を過ごしたい。
そんなものは俺のエゴだというのは十分わかっている。でも、この感情を止めることはできなかった。
どうやら言葉にして俺の想いを自己認識してしまったから、こんな風に胸が苦しいのだろう。
亜弥はくるりと振り返って俺の方を向く。しかし俯いたままで、今どんな表情をしているのかは見えなかった。
「私に、あなたと一緒にいる資格なんてないわよ」
その声はどこか怯えていて、耳に入れるだけで胸が苦しくなりそうだった。
ポタリ、ポタリと彼女の足元に水滴の跡が落ちていく。
「あなたが今でも私を好きなんだろうなってことは薄々わかってた。そうでもしなきゃ、あんな別れ方をした私にまた会いたいなんて思わないでしょう?」
図星だった。そんな早い段階から俺のことは見抜かれていたのか。
思い返せば、夏海ちゃんの家庭教師をやりたいと言い出したきっかけは、彼女が言う通り俺が亜弥に会えるからと期待したからだ。
しかし亜弥にとっては、恨んでもおかしいはずなのにどうして、と違和感を覚えただろう。
「まあ、そうだね。確かにあれは酷い仕打ちだと思う。でも俺はもう気にしていないから、亜弥も気に病まないでほしい」
「そうじゃないのよ」
遮るように亜弥は言葉を放つ。
いつもの穏やかな声とは違い、棘のある冷たくて激しい声だった。
「私は、ずっとあなたを裏切り続けているの。中学の時も、今も」
わかっている。
1度目は罰ゲームとして付き合っていたことに対して、2度目は旦那さんがいるのにこうして関係を続けていることに対して。
ひっくるめると、俺が亜弥の1番ではないことに対して。
よくわかっている。
それでも、やっぱり君がいいんだ。
「でも君は悪い人じゃないから」
だから、俺は君を嫌いにはなれない。
「…………やっぱりあなた、そっくりね」
亜弥の顔は目元が赤くなっていたが、今の表情はどこか哀しい感じが漂っていた。
その憂いた笑みを見ていたら心が痛くなる。
「そっくりって、誰に?」
「旦那」
ポツリと、それだけ呟く。
その答え方がなんとも投げやりで、亜弥らしくなかった。目にもハイライトは灯っていない。
「中学の頃から、あなたは優しかったわね。私のことをいつも気にかけて、デートの時はエスコートしてくれて。大人になってからもあなたは変わらずに優しかったわね……そういうところがあの人と似ているの。だから、あなたが優しくしてくる度に、どうしても彼の姿と重ねてしまって。私、あなたにも
「…………」
何も言葉は出なかった。相槌も打てない。
俊、というのはおそらく亜弥の旦那さんの名前だろう。なるほど、本当に愛した人に対しては呼び捨てなのか、とちょっとした嫉妬心の芽が生まれる。
亜弥は告白を続ける。
「あなたと罰ゲームで付き合った初めは、あなたに恋愛感情なんてなかった。でも、あなたの優しさに触れる度に、少しずつあなたに惹かれていって……多分、あれが初恋だったと思うわ」
初耳だ。まさか、こんなタイミングで20年来の告白を受けるなんて、思ってもみなかった。
動揺する俺をよそに、さらに亜弥は爆弾を投下する。
「でも当時は別れた後にそれを自覚したものだから、ヨリなんて戻せなかった。あの時の私はその罪悪感を消すので必死で、あなたのことを忘れようとしていたわ。結局忘れられたのは大学に入ってしばらくしてから。一つ上の先輩だった俊に告白されてね。それからは楽しかったわ。一緒にいて楽しかったし、心が安らいだ。そしてあなたに似た優しさに、居心地がいいとすら思ってしまったの。最低でしょ」
過去を語る亜弥の笑みは、邪悪で禍々しくて、全てを諦めた人間が見せるそれだった。
きっと、彼女は俺との縁を完全に断ち切ろうとしている。そうでなければこんな話できるはずがない。
「もうやめてくれ」
やっとの思いで捻りだした言葉を吐き出す。しかし亜弥には効果がなかった。
「もちろんあなたの姿と重なったわ。でも、それ以上に俊と一緒にいる時間が幸せで、それに、もうあなたとは二度と会えないと思っていたから」
「もういい」
「でも違った。やっぱりあなたはあの頃のままで、私が愛した俊も、ただあなたに似通っただけの偶像だったのよ」
「もういいって言ってるだろ!」
俺は声を荒げた。再会した時以来だっただろうか。
しかしここまで感情がぐちゃぐちゃとかき乱されるのは初めてだ。
立っているのもやっとで、今俺が抱いているのが怒りなのか、悲しみなのか、嫉妬なのか、それすらも曖昧でわからない。
ようやく亜弥は言葉を並べるのをやめた。でもどこか気は虚ろで、まだ浮世離れしているようだった。
「そんな言葉が聞きたかったんじゃない。これ以上、君と旦那さんを傷つけるのはやめてくれ」
宥めるように忠告した。
亜弥はボロボロと涙を流しながら、俺を見る。
「…………かんないのよ」
「え?」
「わかんないのよ! どうすればいいのか。何が正解なのか。だって、だって、私……」
あなたのこと、本当に好きになっちゃったんだもの。
そんな過去最悪で殺傷力の高い爆弾を食らい、俺は何も言うことはできなかった。
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