第41話「それでも、君と」
「幻滅したでしょ? 私、こんな女なのよ」
フッと亜弥は言葉を地面に吐きつける。
正直、感情が追い付かない。頭の中を整理するのにもまだ時間を要する。
ぐちゃぐちゃとした感情を抑えるように、俺は自分の心臓のところを掴んだ。
「私は誠実にはなれない。あなたの優しさに触れる度に、俊のことを思い出してしまう。でも、俊にも同じことをした。私はもう、誰かを好きになっちゃいけないのよ」
彼女が違う男の名前を出す度に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
お願いだ。それ以上自分を傷つけないでくれ。
そして旦那さんも傷つけないでくれ。
あやは「ごめんなさい」とだけ呟いて、スタスタとスーパーの方へ歩く。
すぐに俺は彼女を追いかけた。
「待って!」
俺が亜弥の腕を掴んでも、彼女は振り向いてくれなかった。それでも、この手を離したら、永遠に離れてしまうような気がしてならない。
こんな形で別れてしまうのは嫌だ。今度こそ一生後悔する。
「……離して」
「離さない」
「離して!」
「嫌だ! この手を離したら、きっと後悔する。俺も、多分君も」
抵抗していた亜弥だったけれど、その言葉を聞いた途端に腕の力が抜け落ちていくのが伝わった。
まだ感情は整理しきれていないけれど、結局求める答えは難しくないものだ。
「たとえ君の言っていることが真実だとしても、君が旦那さんを好きになった気持ちに嘘はないと思う」
目は口ほどにものを言う、とあるが、再会した日に彼のことを語ってくれた亜弥の目は、俺に向けたことのない、優しくて慈愛ある瞳をしていた。
多分あれが、本当に愛した人に向ける顔なんだろう。悔しいけど、俺はまだ彼女の一番にはなれていないみたいだ。
「俺のことはどう思われても構わない。けど、俺がいなくなっても、旦那さんのことは変わらずに愛してあげて」
そう言って、俺は亜弥の手を取る。涙で冷たくなった両手を温めるように、ぎゅっと優しく握った。
「前も言ったと思うけど、俺が一番嫌なのは、俺が好きな人が自分で自分を傷つけること、そして自分を愛したものを傷つけること。これが何よりも嫌なんだ。だから、今はまだ難しいと思うけど、胸を張って、幸せだって、言えるようになってほしい。というか、そうなれるように俺も手伝いたい」
簡潔にまとめてしまえば、「幸せになりたい」の一言に尽きる。
おそらくだが、亜弥は俺と恋愛に罪悪感を感じている。
それは亡くなった旦那さんに対してでもあるし、元をたどれば旦那さんにもある程度の罪悪感は感じていたはずだ。
ならば、俺がその罪悪感をかき消すほどの幸せを与えてあげればいいのではないだろうか?
こんな風に言い切ると、洗脳とも解釈できるかもしれないが、全ての発端が俺にしわ寄せされるのなら、やはり俺が責任を取るべきなのだろう。
少なくとも、亜弥自身がかけた「自分は幸せになれない」という催眠から解放してあげたい。
「自分を、大切にしてあげてください」
俺は彼女の手を離した。亜弥の腕は力が抜けて、ぷらんと宙づりになる。ハイライトはまだ瞳には灯らない。
「……ごめんなさい」
それだけ言って彼女は涙を拭う。もう目元からは何も流れてこなかった。
「ちょっと、気が動転してた。あの子にはこのこと言わないから。それと、今まで通り仲良くしましょう? 家庭教師もこれからも頼めないかしら」
「もちろん」
言われなくたってそのつもりだ。
とりあえず首の川一枚は繋がっただろうか。心の中で、ほっと胸を撫で下ろす。もうこんな修羅場はごめんだ。
再び俺達は歩みを進めた。雑談なんてできる空気ではなかったが、今はこうして2人でいれる時間に感謝をしよう。
「じゃあ、俺はこれで」
「また来週」
いつもはお惣菜もスーパーで買うのだが、さすがに買い物まで一緒にできる距離感ではなくなってしまった。
少し早めの別れを告げ、俺はスタスタと家路に向かう。
10月も終わりに近づくと、5時台でも既に夕日が沈み始めていた。
コンビニで弁当を買い、自宅に戻る。
部屋に入ると、今日一日の疲れがどっと襲ってきた。濁った息を吐き出しながら、俺は弁当の袋をリビングの机に置いた。
ボスン、と自室のベッドの横たわる。
とりあえずあんな風にあの場はなんとか乗り越えたけど、この先亜弥と上手く関係を修復できるか不安だ。
今は夏海ちゃんの家庭教師、という立場があるからいいものの、それが終わってしまえば確実に俺達は破綻してしまう。
いや、本当は破綻してもおかしいのだ。
それなのにまだこうして繋がっていることは、奇跡とも言えよう。
『幻滅したでしょ?』
回想の中の亜弥が呟く。
「するもんか」
むしろ、一度亜弥と付き合ってしまったから、俺の初恋はいつまで経っても実らない。
この責任、どうしてくれよう。
俺の中に旦那さんの姿があったとしても、俺は俺であり、旦那さんは旦那さんだそして、亜弥が選んだのは俺ではなく旦那さんなのだ。
たとえ、優しさが似ていたとしても、俺と旦那さんは違う。
だから、俺は俺なりの方法で、亜弥を幸せにしたいと思っている。
「よし」
腹は括った。覚悟は整った。
亜弥は、自分のことを「最低な女」だと評した。
相手に一途になれない、誠実になれない、どうしても彼の姿を思い重ねてしまう、と。
でもそんなこと、人間なら誰しもが持つような感覚ではないのだろうか?
本当に好きであったなら、別に忘れる必要なんてない。
何かにすがりたい、という感情も捨て去らなくていい。
彼女の場合、それが旦那さんだった。亜弥の中で一番は、まだ旦那さんだ。
それでも、俺は彼女と一緒に生きたい。今日はその覚悟ができた日だ。
とはいえ腹が減っては戦はできぬ。まずは腹ごしらえだ。
今日の夕飯はハンバーグ弁当だ。少し値段は張ったが、やはりその分他の弁当よりも格段に美味かった。
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