第42話「聞き耳立てて」

 とりあえずひとまずの修羅場は乗り越えられたからか、少し気分はスッキリとしていた。


「今日は少し顔色がいいですね。何かいいことでもありました?」


 終業時間の終わりに水野先生が声をかける。やっぱり彼女の洞察力は鋭い。


「まあ、色々抱えていた問題がとりあえず解決しましたから」

「それはよかったです。ここ最近、結構やつれているようでしたから、心配だったんですよ」


 あはは、と笑ったが、心配をかけたことについては申し訳ない。


「後悔のない選択、されたんですね」


 俺はここで水野先生との会話を思い出し、日曜の出来事を振り返る。

 迷いはない。俺は亜弥を幸せにしたいと腹をくくった。


「そうですね。覚悟ができました」

「覚悟、ですか?」

「ええ」


 仰々しく言ってみるが、別にここからすぐに特別な関係になれるとは思っていない。ただ、どんなに長い時間がかかってもいいから、亜弥と一緒にいれるような準備をしていきたい。

 亜弥に人生を捧げる、そのための覚悟だ。


「やっぱり塾長は、亜弥さんのことが好きなんですね」

「ちょ、ちょっと!」


 まだ講師の先生たちは何人か残っている。それなのにこんなことを言ってくるなんて、誰かに聞かれたらどうするんだ。


 俺は人差し指を立て、口元に当てる。恥ずかしくてたまらない。


「あんまりそういうこと言わないでください。変な噂が立つかもしれませんから」

「そうでした。すみません」


 てへ、と水野先生は愛嬌を振り撒き、「お先です」と言ってこの場から逃げるように出ていった。

 はあ、と溜息をついていると、今度は鈴井先生がやってきた。


「あの」


 ギクリ、と心臓が飛び出るような感覚で、鈴井先生の方を振り向く。


「塾長、好きな人ができたんですね」


 聞かれていた。と俺は心の中で四つん這いになり、首を垂れた。

 別に公になって問題になるようなことではない、とは思うが、それでもやはり教育者の恋愛事情は隠しておいた方がいいだろう。

 特に子供はこういう誰が付き合った、別れた、というゴシップネタが好きだから、より一層注意を払っているのだが、完全に油断した。


「ど、どこから聞いてました?」

「すみません。最初の方からです。盗み聞きするつもりはなかったんですけど、つい聞こえちゃって」


 ぺこりと鈴井先生は頭を下げる。そこまで申し訳なさそうにしなくてもいいのに。見ているこっちまで申し訳なく思ってくる。


「このことはできれば他言無用にしてもらえたら助かります」

「いいですけど。他の先生方は知っているんですか?」

「水野先生以外には相談したことありませんから、この話が聞かれていなければ、多分他の先生は知らないと思います」


 むしろ知らないままでいてほしい。俺の恋愛事情を知っても何も得はないし、俺がただただ恥ずかしいだけだ。


「……私のこと、講師陣の間で噂になってたりしてませんか?」

「いや、してないと思いますけど」

「ならよかった……」


 ホッと胸を撫で下ろす。


「それで、用件はそれだけですか?」

「ああ、そうだった。実は今受け持っている生徒についてちょっとご相談があって……」


 鈴井先生が受け持っている生徒の中に、かなりやんちゃな生徒が1人いる。やんちゃと言うか、お調子者の部類に近い。

 まだ小学2年の男子生徒なのだが、とにかく集中力が他の生徒たちよりも欠如している。

 すぐに立ち回ったり、授業の話を遮って別の話をしだしたり、とにかく授業を進めるのが大変らしい。


「どうすれば彼、授業に集中してくれますかね」


 この課題は正直俺もまだ正確な答えがわからない。


 一番はやはり授業に興味を持ってくれることだろう。

 理科や社会に関しては、身の回りの現象や出来事から学ばせたい学習の分野に持っていきやすいため、勉強のハードルが低いが、国語、算数、そしていずれ勉強するであろう英語に関しては、先に述べた2教科と比べると身の回りの事象に結び付くことが少なく、ハードルが高くなる。


 経験上言えることだが、勉強が難しくてわからない、だからつまらない、という思考に陥り、学習そのものに興味を失くしているのだと思う。

 だから、「わかる」という成功体験をさせてあげれば、それを発端に勉強に意欲を持ってくれると思う。


「たとえば、ちょっとゲームを交えてやってみる、というのはどうでしょう。この際教科書という枠は取っ払って、遊び感覚で勉強を教えると、成功体験が味わえて授業を楽しめると思いますよ」

「ゲーム、ですか。あんまり想像つかないですけど」

「まあ私も得意ではないことなので。水野先生ならもっといいアドバイスができると思います」


 もっと詰めたアドバイスができればよかったのだが、こればっかりは水野先生の方が上手だ。彼女は子供の心を掴むのが俺よりも上手い。


「わかりました。ありがとうございます」

「お役に立てましたでしょうか」

「はい、もちろん」


 鈴井先生は不愛想だが、子供を思う気持ちは本物だ。

 将来は小学校の先生になりたい、とアルバイトの面接でもそう言っていたのをよく覚えている。


 失礼します、と言って鈴井先生は塾を出ていく。

 ここでも深々と頭を下げるのだから、礼儀深い人なんだろうなと思う。


「さて」


 残っている業務はまだ多い。今日はかなり遅い時間に帰ることになりそうだ。

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