第43話「いつも通り」
修羅場をくぐってから初めての家庭教師の日になった。
不思議と、修羅場の前より緊張度の度合いは低い。
それでも、やっぱり親愛度が低かったらどうしよう、塩対応だったらどうしよう、という不安は募るばかりである。
インターホンを押す。トタトタと可愛らしい足音が聞こえてきた。
「やあ」
出てきたのはやっぱり夏海ちゃんだけだった。ほんのりと甘い匂いがするから、多分また亜弥はキッチンでクッキーでも作ているのだろう。
そのまま俺は夏海ちゃんの部屋に向かった。
ふう、と心を家庭教師モードにし、勉強に取り掛かる。
「そういえばテストまであとどのくらいだっけ」
「え、あと3週間くらい?」
今はもう10月の終わりだから、2学期の期末テストは11月後半頃に実施されることになる。
「まだ範囲ってわかんないよね」
「うん」
でも俺の中ではある程度の予測はつく。
例年通りだと、おそらく平面図形はほぼ全て履修した状態でテストに臨むことになるだろう。
「じゃあ先週は扇形について勉強したからその復習からやろう」
コクリと彼女は頷き、教科書を開く。先週みっちりやったためか、かなりスラスラと問題を解いていた。
答え合わせをしても全問正解だったので、本当のこの子の成長は早い。
「わからないところとかあった?」
「大丈夫。学校の授業もちゃんとついて行けているし」
「それはよかった」
学校の成績に支障がないのなら何よりだ。
俺はいつものように夏海ちゃんに勉強を教えた。扇形の時よりは簡単らしく、説明もスムーズに進む。
「やっぱり先生の授業、わかりやすい」
「そう言ってもらえると嬉しいな。やりがいあるよ」
大人になってからあまり機会がなくなった。
だから、こういうところで褒められると、自分では大したことをしていないつもりでも、ついつい嬉しくなってしまうものだ。
それから90分、いつものように家庭教師の時間が続く。
カチ、カチ、と秒針が時を刻む度、俺の中の緊張感がじわりじわりと高まっていった。
和解したとはいえ、先週のあの出来事を完全に過去にすることはできない。
コンコン、とノックが扉の向こうから聞こえた。
「お茶にしましょう」
エプロン姿の亜弥が扉を開け、声をかける。先週は扉すら開けてくれなかったから、少しは関係改善になったと思う。
夏海ちゃんは俺より先に部屋を出て、俺は彼女の後姿を追いかけた。
リビングにはいつもと同じように、クッキーが並べられていた。
「最近クッキーばかりだから、何かいい代用のものはないかしら」
「そういえば先生、最初の頃はケーキ買ってくれたよね。久しぶりに食べたい」
「あら、いいわね」
亜弥が手を叩く。そして目線は俺に向けられた。夏海ちゃんも俺を羨望の眼差しで見つめてくる。
「……わかった。けど種類は適当だぞ。いいな?」
「わーい」
静かなトーンで夏海ちゃんは喜ぶ。最初に出会った頃と比べて、随分と感情の起伏が顕著になった気がする。あまり表情筋は動いていないが、これはこれでユーモアがあって面白い。
「夏海ちゃん、最近学校どう? 楽しい?」
なんだか親戚のおじさんみたいな言い草だな、と思いながら俺は彼女に尋ねる。
夏海ちゃんはあまり浮かない表情をしていた。何か嫌なことでもあるのだろうか、と少し心配になる。
「合唱コン、嫌だ……」
「あ、ああ」
そういえばもうすぐ夏海ちゃんの学校は校内の合唱コンクールが開かれる。歌が苦手な彼女はかなり苦労しているそうだ。
すかさず亜弥が夏海ちゃんのフォローに回る。
「最初と比べたらだいぶ良くなっているよ思うわ。大丈夫よ。自信もって」
「でもなあ」
ぶう、と夏海ちゃんはふてくされる。それほどまでに歌うのは嫌か。
「ねえ、合唱コンクールっていつあるの?」
「今週の土曜日」
苦虫をすり潰したように夏海ちゃんは答える。
「なら、見に行ってもいいかな」
「絶対に嫌!」
ここまで声を荒げた夏海ちゃんは初めてだ。それほどまでに見られたくないのだろう。
しかし合唱なのだから、別に夏海ちゃんの歌が目立つわけでもないのだし、そこまで頑なに拒否することもないと思うけれど。
「わかった。行かないから」
「本当?」
「ホントホント」
よかった、と夏海ちゃんはクッキーを齧る。それほどまでに拒絶されてしまうと、逆に興味が出てくる。
それ以降合唱コンクールの話題は出さず、いつも通りの平和な談笑タイムが続いた。
なんだかこんな風にまったりとした日曜日を過ごすのは久しぶりだ。ここ数週間怒涛の展開が繰り広げられていたから、心が落ち着く。
1時間ほどして、俺は帰る準備を始めた。いつものように、送っていくわ、と夏海も買い物の準備をする。
何の変哲もない帰り道を、俺達は歩く。これで、本当に元通りであってくれればいいのだが。
「時々思うの。こうしてあなたと出かけている間、夏海は心細くないか、私のことを恨んでるんじゃないか、って」
彼女の言葉にハッと気づかされる。
もし今亜弥の家に旦那さんがいれば、俺と一緒に買い物に出かけることなんてないし、そもそも俺は亜弥の家にこうして通うこともない。
傍から見たら、俺が亜弥を寝取り、亜弥は子供を捨てているようにも見えるだろう。
だから夏海ちゃんは俺のことを「気持ち悪い」と言ったのかもしれない。中学1年生の彼女に寝取り・寝取られという概念があるかどうかは微妙だが。
「なら、毎週のように見送らなくてもいいよ」
「でも、いつもこの時間帯に買い物に行くから」
「ああ……」
買い物の時間と被るのであれば、仕方ないと納得してしまう自分がいる。けれど、夏海ちゃんのことをないがしろにしたくもなかった。
けれど、すぐに答えが見つかるものではない。いつものようにスーパーで総菜を買い、彼女と別れる。
そこに、特別な関係などなかった。
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