第39話「解法」
俺が悶々としていても、家庭教師の日は訪れる。
この日まで、亜弥からの連絡は何一つなかった。俺も何も連絡をしていないため本当に家庭教師があるのかもわからない。
でも、来ないで、と言われてはいないからそれは大丈夫なのだろうと勝手に解釈している。
とりあえず首の皮一枚繋がった。
彼女のマンションに向かうが、足取りが重たかった。いつもはスキップをすれば月まで飛んでいきそうなくらい軽いのに。
ドアの前まで行くと、バクン、バクン、と心臓が激しく脈を打つ。
彼女と再会してからどれだけ心臓に負担をかけ続けているだろう。いずれ心臓発作で死んでしまうかもしれない。
ピンポーン、とインターホンが鳴る。トタトタトタ、と小さくも慌ただしい足音が聞こえたことに内心ほっとした。
「あ、先生、久しぶり」
案の定夏海ちゃんだった。亜弥は今キッチンに籠っているらしい。確かにほんのりと甘い匂いがする。
ということはいつも通りお茶会はあるのだろう。まだ亜弥と対峙する心構えができていないというのに。
「先生、どうかしたの?」
教科書を開きながら夏海ちゃんは尋ねる。彼女に対しては平常心であり続けよう。
「いや、なんでもない。ちょっと疲れてて」
ふう、と気持ちを落ち着かせ、仕事モードに入る。
金は生まれないが、夏海ちゃんの成績を上げるという名目がある以上、責任だけは果たさなければならない。
少し前から数学の分野は平面図形に突入している。
最初は今までより計算に頭を使わなくていいと息巻いていたが、扇形の図形になった途端にピタリとシャーペンを持つ手が止まった。
「これ、ややこしすぎてよくわかんない」
彼女が指摘するのは扇形の弧の長さや面積を求める公式についてだった。文字が出てきたり、分数が表れたり、かなり苦戦しているようだ。
だが、理屈を知ってしまえばそこまで難しいものではない。
「円周の長さと円の面積はどうやったら求められるか、覚えてる?」
俺の問いに夏海ちゃんはコクリと頷く。
「円はぐるっと回るから360度。だけどこの扇形は60度しかない。だから、内角は60/360っていう風になるんだ。あとは今までの公式に当てはめるだけ」
結構わかりやすい解説だと思うけれど、それでも夏海ちゃんの理解度は今一つのようだ。
ここはやはり実践で経験を積むしかないようだ。
「実際にやってみよう」
そう言って彼女に教科書の問題を解かせる。
公式を覚えるだけでいい、と言い切ってしまえば教えるのは楽だが、なぜそうなるのかを理解させないと、考え方は伸びないし、今後難問が表れた時に困る可能性がある。
夏海ちゃんが解いているのは、半径3cm、内角30度の扇形の弧の長さと面積を求めよ、という問題だった。
ノートにすらすらと公式を書いていく。すると、途中でピタリと手が止まった。
どこかわからないものでもあっただろうか。
「どうかした?」
「今ようやくわかった」
まるで名探偵のようなセリフを呟き、彼女は黙々と解き進める。
理解度を定着させるためのそれとは違い、夏海ちゃんの解くスピードは完全に理解している人のものだった。
スイッチが入るタイミングが謎過ぎる。
今度は応用して、逆に内角を求めよ、という問題だった。少し捻ったらどうかと心配したが、杞憂に終わった。
「どう? 大丈夫そう?」
「うん。難しいって思ってたけど、やってみると案外そんなことないね」
その言葉が今の俺と亜弥のことを言い当てているようだった。
この授業みたいに、明確な解法さえあれば、たとえどんなに難しいと思っていた問題でも簡単に解決できるかもしれない。
「……どうかした?」
「え? いや、なんでもない。ちょっと考え事」
すると、コンコン、とノックが聞こえた。
「そろそろお茶にしましょうか」
ドアは開かなかった。多分、向こうも俺のことを警戒しているのだと思う。
どんな顔で会えばいいのかわからないから、でも普段通りを装わなければいけないから、こんな風に誘ってきたのだろう。
別に家庭教師だけやってもらって、あとは帰らせてもいいのに、律儀な人だ。
何も知らない夏海ちゃんは「はーい」と返事して、リビングに向かう。
俺は、まだ部屋で心を整えるのに必死だった。
またあの夜の出来事がフラッシュバックする。
亜弥が俺にどんな感情を抱いているかわからない以上、どんな顔をして彼女に会えばいいのかわからないし、恐怖もあった。
そんなナヨナヨと立ち止まっている俺の背筋を正すように、部屋の向こうから声が飛んできた。
「佐伯くん」
声の主は亜弥だった。どこか緊張している雰囲気がある。
怖いのは向こうだって同じだ。それでも、こうして声をかけてくれている。
「ごめん、今行く」
俺は部屋を出た。まだ彼女がどんな顔をしているのかわからない。笑っているのか、怒っているのか、見れなかった。
テーブルにはクッキーが並んでいた。2週間ぶりのクッキーだが、ちゃんと焼けていたら3週間ぶりになる。
前回のものはしょっぱくてクッキーとは呼べなかったから、今日はちゃんとできていると信じている。
既に夏海ちゃんはクッキーを実食しているようだった。彼女の反応を見るに、どうやら今日のは美味しく出来ているみたいだ。
いつも座っている席は亜弥の真正面だから、プレッシャーがかかる。怖くて顔を上げることはできなかった。
「先生、お母さんと喧嘩でもしたの?」
夏海ちゃんもさすがに俺の様子がおかしいことに気づいたみたいだ。子供の観察眼というものは鋭い。
「お母さんも、最近なんか様子が変。2人とも何かあったの?」
彼女の質問が俺達に重くのしかかる。
どうしようか。あの夜のことを正直に言うわけにもあるまい。
「ちょっと、喧嘩しちゃってね、まだ仲直りできてないのよ」
亜弥の言い訳に俺は乗ることにした。コクコクと、赤べこのように首を動かす。
「なら今仲直りして。2人がギスギスしてると、クッキーが美味しくなくなっちゃう」
この子って、こんなに毒を吐くような子供だったっけ? なんて思いながら、俺は亜弥の顔を見る。
亜弥も目を丸くして、俺を凝視していた。少し照れているようにも見えたが、それはきっと俺も同じだろう。
「あの、その、この前はごめんなさい」
先に言葉にしたのは亜弥だった。
「俺の方こそ、ごめん」
ぎこちない謝罪だったが、夏海ちゃんは満足したのか、興味なさそうにパクパクとクッキーを頬張る。
が、当の本人たちにとってはまだ何も解決はしていない。
形だけの謝罪は済ませたけれど、俺達の中にしこりやわだかまりはまだ大きく残ったままだ。
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