それでも、君と

第38話「後悔」

 翌日の朝はあまりいい目覚めはしなかった。

 昨日の晩の、あの出来事が頭の中で何度もリピートされる。


『好き……だよ。中学から、今までずっと』


 なんであんなことを言ってしまったんだ。途端に羞恥心が全身を駆け巡る。むず痒くて、恥ずかしくて、顔を隠してバタバタとベッドの上でのたうち回った。


 亜弥は迷惑じゃなかっただろうか。いや、迷惑だっただろう。

 なんせ、いきなり告白したんだ。相手がいるとわかっているのに。


 そもそも亜弥はどんな気持ちであんなことを訊いてきたんだ? ひょっとしたら彼女にもその気が……いや、わからない。


 今日が家庭教師の日じゃなくてよかったと心底思う。


 なんだかもうとにかく疲れた。何もやる気が起きない。体を起こす気力も出なかった。

 彼女に真意を問う勇気も生まれなかった。


「死にたい……」


 なんて子供じみたことを言ってみたりする。が、呟いたところで昨日の過ちは消えない。後悔の念が心に重く積もっている。


 ぼうっと横になっていると、いつの間にか正午になっていた。朝の8時に目を覚ましたから、およそ4時間ほど無駄を貪っていたことになる。

 別にそんなことはどうだっていい。


 俺はゆっくりと体を起こし、ジャージ姿に着替える。

 四肢が重たい。まるで鈍りの義手・義足と取り換えられたようだ。腰は曲がり、腕はだらんと下に垂れる。動こうにも足が重たく一歩の歩幅が短い。


 飯を買いに行こうと思ったが、空腹感もなく、外に出る体力もなかった。またバタンとベッドにダイブする。


「はああああ」


 気の抜けた声が一室に響く。今日はずっとこんな調子だ。

 スマートフォンの連絡アプリを開いたが、彼女からは何も来ていなかった。単純に何も言わないだけなのか、それとも距離を置きたいのか。

 まあそこまで連絡を取るような仲ではないから、こういうことは当然なのかもしれないけれど。


 いや、そこまで連絡を取るような関係でないからこそ、あの答えはやはり不正解なのだろう。


「バカだなあ。俺」


 彼女のメッセージ履歴を眺めながら、自分に吐きかけるように言葉を投げ捨てた。『楽しみにしてる』という彼女からのメッセージが胸に突き刺さる。




 翌日になっても、落ち込んだ気分からは抜け出せなかった。

 職場に行っても、あの夜の出来事がフラッシュバックして、ぼうっと何も考えることができなくなってしまう。


「塾長? 大丈夫ですか?」


 水野先生が心配そうに声をかける。今日だけで水野先生だけでなく、いろんな人に声をかけられた。

 生徒にまで心配されたのだから、重症だ。


「体調がすぐれないようなら、帰って安静にしていた方がいいんじゃないですか?」

「大丈夫です。問題ありません。ちょっと考え事をしていて」

「そうですか? ならいいんですけど」


 しかし思考は完全にあの夜に支配されてしまっている。簡単な業務でもミスを連発するし、生徒からの質問にも上の空だった。

 自分でも嫌なことは引きずってしまうタイプだとは思っていたが、まさかここまで酷いとは思ってもいなかった。


 授業が全て終わった後にやってきた疲労感は、今まで経験してきたそれとは全く比べ物にはならなかった。

 どれだけ忙しかったスケジュールにも、この徒労の疲れには敵わない。


「本当に大丈夫ですか?」


 誰もいなくなった教室で、水野先生が声をかける。


「顔、ものすごいやつれてますよ」

「そうですか? 自分ではそんな自覚なくて」

「体調管理もしっかりしてくださいね」

「面目ない」


 俺はペットボトルのお茶を飲む。どうしてか味がしない。


「亜弥さんと何かあったんですか?」


 口に含んでいたお茶を吹き出しそうになった。

 唐突に核心を突くような質問をするな、と言いたくなったが、すぐにそんな気力は収まっていく。


「…………何か聞きました?」

「いえ。でも何か悩み事があるんだろうなってことくらい、誰にでもわかりますよ。さすがに亜弥さん案件だったかどうかはわからなかったのでカマかけたんですけど、否定しないってことはやっぱりそういうことなんですね?」

「しまった」


 今更口元を抑えたってもう遅い。

 はあ、と溜息をつき、腰に手を当て、ジロリと睨んでくる水野先生の視線に耐えきることはできず、当該の全容について話してしまった。


「そうですか、そんなことが……」

「この先どうすればいいのかわからなくてですね。あはは」


 そう笑ってみせたが、やっぱり元気は沸いてこない。俺も溜息が出る。


「自分で答えを見つけるしかないですよ」

「今日はいつにも増して厳しいですね」

「私は塾長の恋愛アドバイザーになった記憶はありませんよ。ただ、進むか退くか、2つに1つです。悔いのない選択をしてください」


 それだけ言って水野先生は出て行ってしまった。


「悔いのない選択、か……」


 彼女の言葉を口に出して反芻する。


 少なくともあの時まで、亜弥に関することに後悔なんてものはなかった。

 中学の時に一度別れを選んだのだって、多分あのまま続けてしまったらきっといい関係は築けなかっただろうから。

 当時はものすごく後悔の念が強かったけれど、今となってはこれでよかった、と納得している選択だ。


 問題はあの夜のことだ。


 俺の言葉がきっかけで、今までの関係が全部崩れてしまうかもしれない。そうなると、もう俺達が再び会うことはなくなるかもしれない。

 実際、夏海ちゃんの成績は俺がいなくてもなんとかなるレベルにまで成長している。家庭教師、という俺と亜弥を繋ぐ唯一の切り札が、あの出来事をきっかけに破綻してしまうかもしれない。


 やっぱり別れた方がいいのか。しかしそうしたら一生後悔してしまうような気がした。

 それでも俺は、彼女の幸せを壊したくはなかった。

 亜弥が築き上げた、旦那さんとの幸せを、俺によって穢されてほしくはなかった。


 俺は、どうすればいいんだろう。

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