第76話「もう会いたくなかったのに」
夏海ちゃんの試合の日になった。
駅に向かい、そのまま誰かを待つことなく改札を通り抜ける。
誰かを待たずにそのまま利用するのはいつ以来だろう。普段は誰かを待ってから利用するから、いつもの癖でちょっと立ち止まってしまった。
電車で揺られることおよそ30分。俺は会場の最寄の駅で降りる。
正直中学校の敷地内に関係者以外が立ち入って大丈夫なのかと少し疑問に思ったのだが、夏海の試合を見に来たのだから問題ない、と亜弥は言ってくれたので、堂々とすることにする。
まあ夏海ちゃんの体育祭に見に行った時も大丈夫だったから、おそらく今回も大丈夫だろう。
その予想通りで、普通に学校の敷地内に入ることができた。
体育館に向かうと、夏海ちゃんのチームがウォーミングアップを始めていた。
しかし総合体育館の場合とは違い、明確な観客席がないため、どこで見ればいいのかわからない。
そのため、観客に来た保護者の人も少なかった。
体育館の入り口のところで立ち往生をしていたところ、救世主が現れた。
「何してるの? そんなところで」
亜弥だった。白いTシャツに紺のジーンズという格好の彼女は少しレアだ。
夏海ちゃんが活躍する場で亜弥はこういうファッションをする傾向があるみたいだ。
「ああ、どこで観戦すればいいのかなって思ってて」
「それならここを左に曲がったところに2階のスペースがあるから、保護者はそこで見ることになってるわ」
「そっか、ありがとう。で、亜弥は何をしようとしてたの?」
「喉渇いちゃったから、近くの自販機でお茶でも買おうかなって思ってて」
「なら一緒に行くよ。俺も喉渇いてたし」
本当はそこまでなのだが、彼女と一緒にいれるならなんだっていい。
それに、知らない学校で知ってる人がいないとなんだかソワソワしてしまう。
そういうわけで、一旦学校を出て、近くの自販機に向かった。亜弥は緑茶を、俺は麦茶を購入する。
「そういえば、男子バレーの試合もあるんだね」
「ええ、そうみたい。珍しいのよ、こういうのってあんまりないから」
「へえ」
そんな他愛もない会話をしながら、再び敷地内に戻り、体育館に入る。
俺は学校のスリッパを拝借するが、やはり何度も訪れている亜弥は手慣れていて、持参のスリッパを履いていた。
「そうだよな、スリッパ、持ってきた方がよかったよな。すっかり忘れてた」
「いいじゃないそれくらい。学校側も用意してたんだから」
そう言って亜弥は俺に微笑んでくれた。
その笑顔がまるで聖母のようで、またして好きが溢れ出してしまう。
けれどここは学校だ。おまけに、夏海ちゃんやいろんな人が見ている。そんなところでハグはもちろん手を繋ぐこともできなかった。
それでも一緒にいてくれるだけで充分幸せなのだけど。
しかしそんな淡い幸せは、すぐに崩れ去ってしまう。
体育館の2階に上がったところに、奴はいた。
「あら、亜弥じゃん。来てたんだ」
「あなたこそ、こんなところで再会するなんて思いもしなかったわ」
どうして悪い想像はこんな風にすぐに形になってしまうのだろう。
石黒は相変わらずニタリと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
こんな表情が似合うのも世界で彼女一人だろう。
「石黒、なんでここにいるの」
「息子が試合に出るんだ。ほら、あそこでみんなに指示出してるのが息子。部のキャプテンでさあ、逞しく育ったもんよ」
自慢げに彼女はその彼を指差しながら、亜弥の方を見た。
何を張り合っているのかは知らないが、亜弥はなぜか悔しそうに「ぐぬぬ」と石黒を睨む。
「それにあたし、もう石黒じゃないから。今は
「ああそうですか。私だって自慢の娘の応援に来たの。邪魔でもされたら迷惑よ。これ以上話しかけてこないでもらえるかしら」
「そうしてくれるとありがたいね。じゃあ、お互い頑張ろうよ」
また石黒……もとい和泉はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、相手校の応援席のところに向かった。
「さ、行きましょう。もう会いたくなかったのに、嫌な気分になっちゃった」
プリプリと頬を膨らませ、亜弥は夏海ちゃんたちの学校の応援場所に向かった。
まだ可愛げのある怒りでよかった。これが本気になってしまうと、花見の時のように絶対零度の空気になってしまうから。
体育館の2階席と言うのは応援にはとても不向きで、あまり下の様子が確認できない。
前衛の方はちゃんと見えるが、後衛の方は少し見にくい。
夏海ちゃんはリベロだから、あまり活躍は見えないだろう。少し残念だ。
「で、相手とうちの学校、どっちが強いの?」
「向こうでしょうね。毎年県大会にも行ってるし、何代前か忘れたけど、支部大会にも出たことあるらしいわ。男子も女子もバレーが強いのは間違いないわね」
「へえ……じゃあ和泉、調子乗りそうだね」
「そうね、想像するだけで頭が痛くなってきたわ」
怪訝そうな表情を見せながら、亜弥は夏海ちゃんをじっと見つめた。
約1年ぶりに彼女のユニフォーム姿を見たけれど、とても様になっていて、彼女の成長が窺える。
「勝てるといいね」
「そうね」
いつもならここで「勝つわ」だとか「自慢の娘だもの」なんて言葉を挟む亜弥だったが、さすがに相手が厳しいようで、それ以上何も言わなかった。
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