第73話「知りたくないこと」

 その後の空気は言わずもがな最悪で、周囲には絶対零度の凍てつく寒波が襲っていたと思う。

 食事をするにしても会話なんて一切なく、冷え切った唐揚げもおにぎりも、味は何一つとしてなかった。

 燦燦と晴れ渡った青空も、満開の桜も、目に映る光景全てが色あせて見える。


 夏海ちゃんは何も言ってこなかった。

 が、あの事件が起きてから一度たりとも母親である亜弥と顔を合わせようとしない。

 あれだけはしゃいでいたのに、ただの人形のようにぼうっと突っ立っているだけだった。


「帰りましょう。ちゃんと、話しておかないといけないから」


 俺は何も言えず、ただ黙って頷くことしかできないでいた。

 それは夏海ちゃんも似たような感じで、何の反応も示さず、亜弥に追従する。


 どんな風に2人に声をかけていいのかわからない。

 気にしてないから、終わったことだから、で済んでいいものなのか。

 亜弥の表情から察するに、子供にはバレたくなかったことであることには間違いない。

 もう亜弥の過ちについては今更言及するつもりなんて毛頭ないけれど、それでも自分たちから夏海ちゃんに伝えるのはやはりはばかられる。


 身体が重たい。まるで鉛を纏っているようだ。

 ずん、ずん、と一歩を踏み出す度に、沼に沈んでいくような感覚に陥ってしまう。


 バスに乗っている間も、電車で移動している間も、俺達に会話なんてものはなかった。

 ぎこちない空気だけが流れ、ただ時間だけが過ぎる。

 あれだけ楽しかった幸せな時間は、呆気なく崩れ去ってしまった。


 予定よりも少し早い時間に2人の家に到着し、そのままリビングに腰掛けた。

 カチ、カチ、と秒針の音だけが部屋に響き渡る。


 亜弥はじっと夏海ちゃんを見つめていたが、夏海ちゃんは臆面もせず、能面のように無表情で亜弥から目を逸らす。


「……どこから、話したらいいのかしら」

「聞きたくないよ、お母さんが先生に何したのかなんて。そんなの知りたくない」

「でも……」


 言葉はそこで途切れた。

 俺もできることならこのまま言わずに墓場まで持ち去りたい。

 しかしそれだと亜弥と夏海ちゃんの親子仲、はたまた俺と2人の関係は修復されることは決してない。


 だから、ここで伝えておかなければならないのだ。


 夏海ちゃんは死んだ目で俺を見つめてくる。


「まだよくわかんないけどさ、多分あの人の言ってる感じだと、多分お母さん、先生に酷いことしたんでしょ? もしそうだとしたら、私、お母さんのこと嫌いになっちゃうかも」


 表情には出ていなかったが、声は確かに震えていた。

 何かに怯えているように、不安がっているような声だ。


 だからこそ、夏海ちゃんにも知ってもらいたい。


 俺は亜弥に目配せを送る。

 正直これをきっかけに関係がさらに悪化することだって考えられる。けれど、俺はその方が今のままを貫くよりもよっぽど嫌だ。


 亜弥はふう、と一呼吸置いて、夏海ちゃんを見つめる。


「今から話すこと、最後まで聞いてほしい。あまり気持ちのいいものではないかもしれないし、ひょっとしたらあなたに嫌われるかもしれないけれど、こうなってしまった以上話しておく必要があると思って」


 そして亜弥は俺との馴れ初めを全て話した。


 昔、一度だけ付き合ったことがあること。

 それが亜弥のグループによる罰ゲームの一環だったこと。

 今でもそのことに対して申し訳なく思っていること。


 話をすべて聞き終えた夏海ちゃんは、眉一つ動かさず、ふーん、と相槌を打つ。


「先生、こんなことされたのによくお母さんと付き合いたいって思えたよね」


 冷徹に吐き捨てるように、夏海ちゃんは問いかけてきた。

 その間亜弥は顔を上げることすらできず、したばかりを向いていた。


「まあ、初恋だったからな」

「それだけ?」

「それだけ、というよりも、あの罰ゲームがなかったら、こんな風に今でも好きにはなってないよ。多分淡い恋心のまま終わってたと思う。楽しかったんだ。亜弥と一緒にいるのが。たとえそれが嘘だとしても」

「ふうん、すごいね」


 その声に感情は入っていなかった。

 もしかしたら俺も軽蔑の対象に入っているのかもしれない。


 表情が読めない夏海ちゃん、と言うのは久しぶりだ。

 昔は僅かは顔の変化から感情を読み取ることができたし、今となってはその起伏がかなり大きなものになっているからとてもわかりやすいのだけれど、今日は全く読めない。


「お母さん」


 冷たい声で夏海ちゃんは呟く。


「正直に言うと、お母さんが先生にしたこと、正直言って酷いと思うよ。私が先生の立場だったら、一生許してないと思う」

「そうね、その通りだわ……」


 でも、と夏海ちゃんが言葉を付け足し、亜弥は顔を上げた。


「先生、すごく優しいんだよ。こんなお母さんでもずっと好きでいてくれて、家出した私にも親切にしてくれて、勉強まで見てくれて、こんな優しい人、世界中を探しても見つからないよ? だから、お母さんは責任もって先生を幸せにしなくちゃダメなの。多分、お父さんがここにいても同じことを言ってると思う」


 顔には出なかったけれど、きっと心では泣いている。

 そんな風に思えた。だって、声がとても震えていたのだから。


「もう先生とお母さんの間で解決してるなら、それでいいよ。はい、この話終わり。解散」


 彼女は立ち上がると、自室に戻っていった。

 今日は家庭教師はやめた方がよさそうだ。

 俺の中でも、少し頭を冷静にさせる時間がほしい。

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