第74話「過去」
1週間が経ち、いつものように家庭教師の曜日になる。
ちゃんと夏海ちゃんに受け入れられているのか不安だ。
けれど、亜弥との電話で知り得た情報によると、夏海ちゃんはいつも通りの様子だそうだ。
それならいいんだけど、まだ拒否されるのは勘弁してほしい。
せっかくいい感じに距離を縮めることができたのに、こんな形で瓦解してしまうのは嫌だ。
ピーンポーン、とインターホンを鳴らす。
こんな風に緊張してボタンを押すのは少し久しぶりだ。
「はーい」
夏海ちゃんの声が扉越しに聞こえた。
その声が普段と変わらない様子だったので、ほっと胸を撫で下ろす。
彼女に遅れて、亜弥もリビングからトタトタと駆けてきた。
「ケーキ買ってきた」
「あら、誰かの誕生日だったかしら」
「いや、そんなんじゃないけど、ほら、先週あんなことあったから、それのお詫び」
先週は俺達のせいでせっかくの花見が台無しになって、家庭教師もちゃんとできなかったから、せめてもの償いのつもりだ。
「先生ってさ、私のことお菓子でなんとかなると思ってない」
「そ、そんなことないよ」
と言い切ったけれど、若干そんな感情を抱いてしまっているのは内緒だ。
むう、と夏海ちゃんは不服な様子で頬を膨らませると、そのまま自室へと戻ってしまった。
多分あの場では何を言っても不正解になっていただろう。年頃の女の子は難しい。
とりあえず部屋に入り、夏海ちゃんの様子を確認する。
いつも通り、勉強机に向き合い、学校の教科書を開いていた。
「最近学校はどう? 勉強、ちゃんとついて行けてる?」
「まあね。まだ1学期の最初だし、まだ簡単かも」
「そっか。ならよかった。じゃあ、今日は先週できなかったところも含めてやっていこう」
いつものように俺は彼女の勉強の面倒を見る。
この内容は去年の復習も兼ねているようなものなので、今の夏海ちゃんにとっては朝飯前だろう。
「ねえ、先生はお母さんのこと、どう思ってるの?」
シャーペンを動かしながら、夏海ちゃんは尋ねてきた。
そんなの、わかりきってることなのに、今更何を言い出すんだろう。
「そりゃ、好きだよ」
「あーそうじゃなくてさ、先生はお母さんがやったこと、本当に許してるの?」
「えっ」
なんだそっちか、と恥ずかしさがこみ上げてくる。
が、それにしても今更論が過ぎるのではなかろうか。
「許してるよ。今となってはいい思い出だし、結果論だけど、俺はまた亜弥と会えたわけだし」
「うーん、それがなんか引っかかるんだよなあ」
コンコンコン、とシャーペンが彼女の頭を軽く小突く。
「私が先生の立場だったら、今でも絶対許してないし、トラウマになって女性恐怖症になってると思うんだ。なのに今でもこうして会い続けることができるのって、なんで?」
じーっと夏海ちゃんは見つめてきた。
そんなの、初恋だったから、と答える以外にはないのだけれど、それでも納得のいく答えではないだろう。
事実、先週同じように答えても、夏海ちゃんはあんまり合点がいっていないようだった。
「この話、この前で終わりだったんじゃないの?」
「そうだけど、ちょっと気になっちゃって。ねえ、本当に理由が初恋だけなの?」
「うーん」
悩んでみたけれど、やはり初恋以外に理由が見つからない。
もし、別解を挙げるとするならば……。
「そうだな。もう随分と昔のことだから、かな」
「と言うと?」
「そりゃ、本当のことを知った時はものすごく落ち込んだし、亜弥に対して怒りも沸いた。でも、だんだん時間が経てば、別れ際の亜弥の言葉は、とても辛そうに聞こえるんだ。最初はそれも演技だと思ったんだけど、今思えば心からの謝罪だったのかなって言い切れる」
それは時間が俺を冷静にさせてくれたから気付けただけでなく、初恋フィルターがかかっていたことも一因だろう。
「あとは、それを美化できるくらいに年齢を重ねてしまったことかな。あの時抱いた強烈な絶望や怒りも全部過去になっちゃったから、久しぶりに会っても、そういう感情にならなかったんだよね。全部美化しちゃった」
「それも、初恋のせい?」
「そうかもしれない。きっとそうかも」
いずれ夏海ちゃんにもわかるだろう。
初恋フィルターがどれだけ強くて、大きな存在であるかということに。
「あ、でもあの人に出会った時は、先生嫌な顔してたよね。誰だっけ。えーっと」
「石黒か? ああ、あいつは……俺が苦手な人間だから」
彼女はよく俺を見かけるとすぐに馬鹿にしてきた。特に亜弥とのことに関して、ずけずけと傷口に塩を塗ってくる。
幸いにも罵声だけで済んでくれたので、そこから暴力沙汰になることはなかったけれど、やっぱり俺は今でも石黒のことが苦手だ。
「先生にも苦手な人とかいたんだ。意外」
「失礼だな。俺だって人間だ。そういう人だって1人や2人くらいいるさ」
「へえ。先生、かなりのお人好しだからそんな人いないって思ってた」
ニヤニヤと夏海ちゃんは俺をからかってくる。
よかった、いつもの明るい彼女に戻ってくれて。
「ほら、無駄話してないで、ちゃんと勉強に集中しなさい」
「はーい」
夏海ちゃんは再びシャーペンを持ち、教科書の問題を解いた。
今日は先週の分も含めて駆け足にする予定だったのだけれど、夏海ちゃんがいろいろ質問してきたせいであまり進まなかった。
ひょっとして授業の妨害が狙いだったのだろうか。
90分が経ったところで、亜弥が普段と同じ笑みを浮かべながらやってきた。
「お茶にしましょう」
その日のケーキは、いつも以上に甘かった。
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