第196話「プロポーズを終えて」
俺達はバスに乗り込んだ。
もう辺りはすっかり真っ暗になっていて、温かかった春の陽気からうって変わってかなり冷え込んでしまったため、これ以上川辺でたむろするのは難しかった。
一番後ろの席に座る。
この後駅前のレストランで夕食を取るつもりだけど、そこまでもう胃が持たない。
緊張ではない。しかし別の感情がドクドクと心臓を動かす。
「奥さん、なんだな……」
「そう、ね……」
頬を紅潮させながら亜弥は答える。
左手の薬指の指輪がキラリと小さく光った。
その輝きを見る度に、「ああ、亜弥はもう俺の嫁なんだな」という謎の征服感が満ち溢れてしまう。
「夏海、どう思うかしら」
「わかんない。祝福はしてくれるだろうけど、あの子の中にはきっとお父さんは生きているし、俺もそれを望んでいる。だから俺は俺なりにできることをするよ。まあ、多分これからも今までもそんなに変わらないだろうけどね」
「そうね、そんな気がするわ」
そう微笑みながら、彼女は俺の手に自身の手を重ねた。小さくて、温かい掌だ。
俺はいつまでも彼女の手を取って生きていきたい。
バスが終点の駅に着く。俺達はバスを降り、目的のレストランへと向かった。
駅ビルの高層階にあるお店だが、普段なら絶対に訪れるような店ではない、少し格式の高いオシャレな店だ。
「予約していた佐伯です」
名前を告げると、奥の席に案内された。
外の景色が一望できる席で、窓から街の風景が見える。
真っ黒な夜空と対照的に、地面はキラキラと電飾が輝く。
「こういうお店初めてだから、緊張する」
「あら、私もよ。すごく高級そうだけど、財布は大丈夫?」
「そこは大丈夫。ちょっと高いけど、許容範囲」
俺がこの店を選んだのも、雰囲気の割には値段が安い、という点だ。
さすがにファミレスや居酒屋の値段よりは高くつくけれど、高級店と差し支えない雰囲気で居酒屋より数百円程度しか変わらないのであれば、お得と言ってもいいだろう。
あらかじめ注文していたコース料理が運ばれてくる。
和食は普段あまり口にしないか、たまに食べるとすごく美味に感じる。
「美味しいわね。この白身の刺身なんか特に」
「ああ、そうだな。亜弥は刺身は自分で作れるの?」
「さすがに無理よ。魚なんて捌いたことないわ。でも、ちょっと挑戦してみてもいいかも」
どうやら火をつけてしまったらしい。
彼女の瞳の奥が、メラメラと燃えている。
その後食事が次々とやってくる。
一品一品の量はそこまで多くないものの、回数が多いために次第に腹も膨れてきた。
「あなたから指輪を貰った場所、あるじゃない?」
左手薬指を窓に向けながら、亜弥は呟く。
「あそこ、実は旦那にプロポーズされた場所でもあったの」
「マジ?」
「ええ、マジ」
クスクスと彼女はいたずらっぽく笑っているけれど、俺としてはそれどころではない。
大丈夫だろうか、また彼女の辛い記憶を呼び覚ましていないだろうか。
あたふたと動揺してしまい、どう言葉をかけていいのかわからなかった。
「座ったベンチも、時間帯も、渡し方も一緒。唯一違っていたのは季節かしら。あの人は紅葉が綺麗な秋で、あなたは桜が綺麗な春。でもほんと、あなたって旦那の生まれ変わりみたい」
「おいおい、俺は君の旦那さんと出会う前に君に会ってるんだぞ」
「ふふふ、それもそうね」
そんな偶然あるのだろうか。しかし実際そんなことが起きてしまったのだから仕方がない。
とはいえ、こちらも意地悪なことを言ってしまいたくなるのが悪い癖だ。
「じゃあ、俺を選んだのって、旦那さんと似てたから?」
「まさか。あなただから再婚したいって思ったのよ。もちろん、旦那と重なる部分もあるっていうのは否定しないわ。だけど私は今のあなたを見たから、もっと一緒にいたいって思ったの」
ふふん、とまるで全てを見透かしたかのようにこちらに笑みを浮かべてくる。
やっぱり、彼女にはいつまで経っても敵いそうにない。
「嫉妬した?」
「ちょっとね。でも安心した」
安堵したせいか、笑いがこぼれてしまった。つられて亜弥も声を上げる。
思わず吹き出してしまったから、ついつい胸の内に秘めていたことを口にしてしまった。
「俺この店に入ってからずっと思ってたんだけど、やっぱり指輪渡すタイミング絶対今の方がよかったなーって」
「あら、どうして?」
「いや、こっちの方がロマンチックかなって思って」
「私は、いろんな偶然が重なったあの場所でもらった方がとても素敵だと思ったわよ」
「そう? ならいいんだけど……」
まあ、彼女の言う通りあんなエピソードがあったのなら、俺があのタイミングでプロポーズした方がよかったのかもしれない。
それに、場所で変化してしまうほど俺の気持ちはブレない。
とは言ってもある程度の環境補正は入るけれど。
最後の料理が運ばれてきた。
シャーベットなんてあまり食べる機会がないから少し楽しみだ。
ワクワクしながら一口したが、キンと頭に強い痛みが走る。
「もう、落ち着いて食べないから」
そんな風に俺を笑う亜弥だったけれど、彼女も一口した瞬間に頭痛がしたようで、目を瞑って何度も頭を叩く。
「人のこと言えないじゃないか」
「うるさい……」
と言いつつもアイスクリーム頭痛がしたのはこの一度だけで、後は難なく食べることができた。
シャーベットの味は、とても甘い苺の味がした。
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