第12話「お母さんって」

 翌週、家庭教師の日。


 インターホンを押す指は最初の時よりも震えていた。

 一週間経って、少し気持ちは落ち着いたと思っていたのに、それでも当日になると緊張してしまう。


 静かに、目の前の扉が開いた。


「いらっしゃい」


 亜弥はいつものように微笑んでくれた。その表情を見て、ふっと少しだけ心が軽くなる。


「今日、シュークリーム買ってきたんだ。あとで一緒に食べよう」

「あら、せっかくクッキーを焼いたのだけれど」

「じゃあそれも一緒で」

「わかったわ。コーヒーは微糖でよかったかしら」

「悪いな。よろしく頼むよ」


 ……なんだか夫婦みたいだ。

 この言葉が何もない普通のカップルに送られたものならば深い絆のある誉め言葉になるのだろうけれど、俺達の場合はそうじゃない。なんとも複雑な気分だ。


 気を取り直し、夏海ちゃんの部屋をノックする。


「はーい」


 いつも通り、を装って俺は彼女の部屋に入る。

 俺が部屋に入るなり、椅子に座っていた夏海ちゃんは立ち上がると、じっと俺の方を見つめだした。


「ど、どうしたの?」

「いや、さっきのお母さんとのやり取り、夫婦漫才だなって」

「ええ?」


 自分でそう評しておいたくせに、他人から改めて言われると恥ずかしい。急に顔が火照ってきて、氷か何かで冷却したくなる。


 いや、そんなことよりも。俺の中ですぐに別の感情が生まれた。


「君からそんな風に言われるなんて驚いたよ」

「どうして?」

「ほら、先週のことがあったから」


 ああ、と思い出したかのように彼女は呟く。


「あれは、その……ごめんなさい」

「いやいいんだ謝らなくて。俺も気にしてないし?」

「本当?」

「ホントホント。さ、勉強始めよう」


 正直傷が完全に癒えていないと問われれば嘘になるが、気に病むほどではない。前々から感じていたことが表面化しただけだ。

 それに今はこのささやかな幸せを守っていきたい。


 夏海ちゃんは勉強机に再び向き合う。

 期末テストは来週の月曜から始まる。明日からは部活動も期末テストが終わるまでは禁止らしいから、ここが正念場だ。


「数学の範囲は先週までに終わらせたけれど、どこか不安なところはないか?」

「ある。全部」


 表情はあまり動いていない。けれど声は少しだけ萎れているように聞こえた。


「よし、じゃあ今までやってきたところとりあえず全部おさらいしてみよう。大丈夫、時間はたっぷりあるから」

「うげえ」


 パタン、と彼女は頭を机に伏せる。きっと彼女なりの現実逃避のサインだろう。もちろんそれを認めてしまえば俺がここに来た意味がなくなる。


「さ、やるよ」


 その言葉に慈悲は一切与えなかった。夏海ちゃんは観念したように教科書を開く。


 全部わからない、と最初に彼女は諦め宣言をしていたが、ひとつずつもう一度教えていくと、「なるほど」「そっか」と理解していた様子だった。それがちゃんと定着してくれていればいいのだが。


 数学は学ぶ内容そのものは単純で少ない。しかしそれ故に様々な応用に変化しやすいため、難問も生まれやすい。しかしやっていることは授業で習ったこととさほど変わらないのだ。


「どう? 行けそう?」

「わかんない。でも少し自信ついた」


 それはよかった、と呟いたと同時に亜弥が部屋に入ってきた。


「お茶でもしましょうか」


 もうそんな時間か、と俺は時計を見る。開始してから90分後の時刻を少しオーバーしてしまっていた。


 リビングに向かうと、既にティータイムの準備が終わっていた。

 俺が買った小さいサイズのシュークリームが数個、亜弥の焼いたクッキーが数枚、それぞれ人数分皿に取り分けられている。

 ちなみに、シュークリームは最初にケーキを買ったあの店だ。


「久しぶりだね、先生が何か買ってくれるの」

「まあ、先週急に帰っちゃったしな。そのお詫びだ」


 いつの間にかこの勉強後のお茶会が俺達の間で恒例になっていた。

 どうやら夏海ちゃんの進捗を確認するための会らしい。が、話すことなんてほとんどなく、大抵世間話くらいだ。


 よいしょ、と俺は椅子に腰かける。向かい側には亜弥と夏海ちゃんが並んで座っていた。


 やはり血は争えないのか、夏海ちゃんはスイーツを前にするとキラキラと目を輝かせる。あまり表情は変わっていないけれど、喜んでいるように見えた。


「美味しい」


 夏海ちゃんは大きな口を開けてシュークリームを頬張る。

 他の同年代の子供たちと比べると大人っぽい印象を受けるが、こういうところはやはり年相応だ。


「よかった、口に合って」


 俺も一口シュークリームを口にする。コンビニで買うシュークリームよりもはるかに上手い。その分値は張るが、その価値はあると思う。


 亜弥の口にも合ったらしく、あっという間に平らげてしまっていた。やはりそういうところは本当に親子だなあと実感する。


「そういえばさ」


 クッキーに手をつけながら、夏海ちゃんは俺に尋ねる。


「先生ってお母さんと同級生なんでしょ? お母さんって、どんな人だったの?」


 その爆弾発言に、思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。亜弥もクッキーを持つ手がピタリと止まって微動だにしない。


 一瞬で場が地獄と化した。しかし夏海ちゃんに悪びれる様子は一切ない。

 ひょっとしたら夏海ちゃんは親の天然なところも遺伝してしまったのだろう。しかし今のところそれが悪い場面でしか発揮されていない。

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