第7話「もっと一緒に……」

 腕時計を確認すると、もう17時をとうに過ぎていた。

 もう少しこの場にいたいのは山々だが、これ以上長居してしまっては彼女たちに迷惑がかかるだろう。


「そろそろ帰るよ」

「じゃあ玄関まで送るわ」


 俺が立ち上がると同時に亜弥も立ち上がる。ほら、と彼女が手招きしたので夏海ちゃんも亜弥に続く。


「今日はありがとね。休日なのにわざわざ来てもらって、夏海の勉強まで見てもらっちゃって」

「いやいや。家にいてもあんまりやることないし、俺が好きでやってることだから気にしなくていいよ。久しぶりに充実した一日を過ごせてよかった」


 ふふ、と亜弥は笑う。その横顔に魔性の魅力を感じた。

 少し高ぶった鼓動を誤魔化すように目を逸らす。


 玄関で靴を履くと、一気に寂寥感に襲われた。

 来週また会える。けれど、その来週までは会えない。


「また何かあったら連絡して」

「ええ」


 別に何もなくても連絡がほしい。しかしそんな恥ずかしいこと到底言えなかった。ましてや彼女の娘の前でなど、言えるはずもない。


「じゃあ」


 何かこの場を繋ぎとめる話題がほしかった。

 なんでもいい。夏海ちゃんの学校のこととか、亜弥の今までのこととか、今日の天気のことだっていい。

 そんな話題さえ思い浮かばず、パタンと扉が閉まった。


 彼女たちの家を後にし、マンションのエレベーターに乗る。階層を伝える機械的なアナウンスはこの前よりも鮮明に聞こえた。


 まあ、こんなもんだよな。


 今日は夏海ちゃんの家庭教師として彼女の家に向かったわけだ。別に亜弥目的というわけではない。

 しかしもっと亜弥と話したかったというのも事実だ。あの晩の出来事がほんの少し心地よかったから尚更。


 マンションを背に、ゆっくりと帰路につく。西日が眩しい。この茜色の光が俺のささやかな傷跡に優しく染みる。


 その時だった。


「佐伯くーん!」


 後ろの方から俺を呼ぶ声が聞こえた。聞き間違いではない。亜弥の声だ。


 振り返ると、彼女が買い物かごを持ちながら、笑顔で大きく手を振っていた。

 これは夢ではなかろうか? ぎゅいっと自分の頬をつねった。痛い。どうやら夢じゃない。


 俺が現状を理解できずに立ち止まっていると、彼女はニコニコとした表情で俺の元へ歩み寄る。


「夕飯の買い出しに行くのを忘れてて。さっきあなたが帰る時に一緒に行けばよかったわね」


 はあ、と俺は呆気に取られる。未だに脳が処理しきれていない。


「ひょっとしたら、君って天然?」

「えー、そんなことないわよ」


 笑いながら亜弥は否定するが、天然、まではいかなくても少し抜けているところがあると思う。お茶だってリビングでやればいいのにわざわざ夏海ちゃんの部屋に持って行ったり、今回の買い物のことだったり。


 まあ、まだ彼女と一緒にいれるのならそれでいい。


 亜弥が通っているスーパーは俺の帰り道の途中にあるらしい。そこまで俺達は一緒に歩くことになった。


 傍から見たら俺達はどう映っているのだろう。

 何も知らない人からしたら夫婦に見えるのだろうか。だとしたら、亜弥の身の回りを知っている人は……。


 俺は少し罪悪感を覚え、彼女の少し後ろを歩いた。

 しかし亜弥はそのことにすぐに気付き、歩みを止める。


「どうしたの?」

「いや、なんか旦那さんに申し訳ないなって。周りの人の目もあるし」

「なんだ、そんなこと」


 ふふ、と亜弥は微笑むと俺の元に詰め寄った。


「私はそんなの気にしないから」


 その言葉にまたしても俺は胸を射抜かれてしまった。ひょっとしたら、なんてことを考えてしまう。

 しかし冷静になって考えてみると、きっとそんなことはない。多分この言葉はもっと別の意味がある。たとえば、「旦那との絆は噂程度で崩れたりはしない」だとか。

 間違っても「そんな噂を現実にしたい」という解釈にはならないだろうな。コツンと脳内の自分を殴る。


 行きましょう、と彼女は再び歩き出した。俺もそれについていく。本当は亜弥の隣を歩きたかったけれど、やはりそんな勇気は出なかった。


 西日に照らされながら俺たちは歩く。


「そういえばさ、まだ君が何の仕事をしているか聞いてなかったな」

「あら、言ってなかったかしら」

「うん。別に話したくなければいいんだけど」


 旦那に先立たれ、さすがに貯金だけでは生活していけないだろう。この家庭がどんな風に生きてきたのか、少し興味がある。

 もっとも、それなりに広いマンションの一室に住み続けることができているのだから、ある程度稼いでいるのだろうけれど。


「別に面白い話でも何でもないわ。ただのアパレル店員よ」

「へえ」


 アパレルか。確かに亜弥らしい華やかな仕事だと思う。

 その業界についてあまり詳しくはないが、脳内で補完された彼女はとても生き生きとしていた。


「結婚してからはしばらく専業主婦やってたんだけどね。あの人がいなくなってからまた働き始めたの」

「そうなんだ」


 そんな話をしている間に、目的地のスーパーへとやってきた。

 やはり夕飯前ということもあり、多くの主婦でごった返しに近い状態だった。


「今日の献立は何にしようかしら」


 ぶつぶつと呪文のように小言を唱えながら亜弥は店内に入る。俺のことなど完全に見えていなかった。


 ここで別れるのもなんだか嫌だったから、俺もスーパーに入る。今日の晩飯の弁当でも買って帰ろう。


「亜弥」


 俺は魚コーナーで食材を吟味している彼女に声をかけた。亜弥は振り向くと目を丸くして俺の方を見る。


「なんで佐伯くんまだいるの?」

「今日の晩飯でも買おうと思って。そっちこそ、夕飯の献立は決まったのか?」

「まあね。鮭のムニエルでも作ろうかなって」


 なるほど、と相槌を打つと同時に、ある中学時代の出来事が脳裏に蘇ってきた。


 確か彼女と付き合う前、中学2年生での調理実習の時間だ。班ごとに鮭のムニエルを作ろう、ということになっていた。

 俺と亜弥は一緒の班ではなかったが、彼女はクラスの皆が仰天してしまうくらいミスを連発していた。

 鮭を黒焦げにしてしまうのはもちろん、調味料をこぼしたり、食器を割ったり、挙句の果てには班の仲間から「何もしないで」と戦力外通告されていた。


 そんな彼女が、こうして家族のために料理できるようになるなんて。少し泣けてきた。なんだか父親になった気分だ。


「あなた、今絶対失礼なこと考えているでしょ。中学の頃のこととか」

「し、してないって」


 当時のことを亜弥が覚えていたことにも驚きだが、思考を読まれてドキリとした。思わず誤魔化してしまったが、どうせバレてしまっているだろう。

 それにしても、どうして考えていることがわかったんだろう。もしやそういう能力があるのではないか、なんて非科学的なことを考えてみたけれど、やっぱりわからなかった。


「私だってちゃんと料理できるようになったんだから。夏海だっていつも『美味しい』って言って食べてくれるんだから。あなたこそ、ちゃんと自炊はしてるの? どうせ総菜や弁当で済ましているんでしょ」


 またしても俺の内情を読まれてしまい、何も返せなかった。

 そんな俺に呆れたのか、はあ、と彼女は溜息をつく。


「毎日は厳しいと思うけど、たまには自分で料理してみたら? ずっとコンビニ弁当なんて、身体に悪いわよ」

「うるさい」


 まるでお袋だな、という言葉は言わないことにした。どうせ本人もよくわかっているはずだから。

 その後彼女の買い物に付き合いながら、俺も自分の晩御飯の弁当を探す。初めて訪れるスーパーだったので、どの商品も目新しいものばかりだった。


「これにするか」


 俺が選んだのは唐揚げ弁当だ。いろんな種類の弁当があったが、なんだかんだ唐揚げ弁当に落ち着いてしまう。

 案の定、彼女からは「もっと栄養のあるものを食べなさい」と言われてしまったが。

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