第8話「また来週」
ピーク時だったので、かなりレジは混んでいた。それでも店員の捌くスピードが早かったため、すんなりと自分たちの番がやってきた。
金額を支払い、俺達は店を出る。もうすっかり辺りも暗くなっていて、18時を報せる時報が街に鳴り響いた。
「じゃあ私、夕飯作らなきゃだから」
「ああ。また……」
亜弥はスタスタと来た道を戻っていく。俺はその後ろ姿をぼうっと眺めていた。
彼女と2人で一緒にいる時間は楽しかった。けれど、それは永遠じゃない。そんなことわかりきっている。
けれど、ほんの少しでも抗いたかった。
「亜弥!」
周りの目なんか関係なかった。俺は彼女を呼び止め、彼女の元へ駆け寄る。ドクン、ドクンと心臓が強く脈打っているのがわかる。
彼女は足を止め、くるりと振り返った。キョトンとした顔で「何?」と尋ねる。
「いや、あの、えっと……」
呼び止めたはいいけれど、その後が思い浮かばなかった。頭の中がグルグルと渦を巻き、真っ白になっていく。脳内回路は火花を散らすくらいにはショートしていた。
「もしかして、何言うか忘れちゃった?」
「そ、そんなことはないけど」
スーパーの窓ガラスに反射する俺が情けなく見えた。恋愛の経験値が低いため、別れ際の言葉もまともにできない。恥ずかしい話だ。
「思い出したら、後でスマホに連絡してもらっても構わないのだけれど」
「ああ……」
もう正直それでもいいのかもしれない。慣れないことはやはりするべきじゃない。
呼び止めてごめん、と言おうとしたその瞬間だった。フッとある情景が思い浮かんできた。
「クッキー」
え? と亜弥は困惑した。俺も子供のように反射的に口にしてしまったものだから少し動揺している。
ふう、と息を整え、ようやく出た答えを言葉に紡いだ。
「クッキー、美味しかった。それだけ伝えたくて。ごめん、呼び止めて」
「なんだ、そんなこと」
ふふ、と彼女は再び笑った。
「昨日初めて作ったものの残り物なんだけどね。でも口に合ってよかったわ。私もケーキ美味しかった」
「そっか、それはよかった……」
自分が褒められたわけでもないのに少し嬉しい。自然と口元が綻んでしまう。
「じゃあまた何か買ってこようか?」
「いいけど、毎週は駄目よ。あの子がつけあがるからしばらくはいいわ。それよりも夏海の勉強、お願いするわね」
「ならそうする」
少し寂しい気もするが、本来の目的は夏海ちゃんの家庭教師だ。仕方ない。
「じゃあ、また来週」
「ええ、また」
今度こそ俺は去り行く彼女の背中を眺め、帰路についた。名残惜しいが、彼女のマンションの前とは違い、吹っ切れた気分だ。それにまた来週会えるしな。
自宅に着いた頃にはすっかり空は真っ黒に染め上がられていた。所々にキラキラと輝くものが点在している。
いつもと同じ空なのに、いつもよりも綺麗に見えた。
「ただいま」
誰もいない部屋に声をかける。当然反応はない。
部屋の電気をつけ、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。本当ならば缶ビールで晩酌、といきたいところだが、弁当の米とビールはあまり相性がよろしくない。
テレビをつけ、クイズ番組に目をやりながら、先程電子レンジで温めておいた唐揚げ弁当を食べる。
「美味いな」
弁当の唐揚げは今まで食べた総菜の唐揚げの中で一、二を争うほど美味だった。その他のおかずもとても美味しい。あっという間に平らげてしまった。
ふう、と一呼吸置くと、再び冷蔵庫に向かい、缶ビールを手にする。何かつまみでも買っておいたほうがよかったな、と少しばかり後悔した。今はゲラゲラと笑っているテレビを酒の肴にしよう。
カシュッとプルタブを開け、ゴクゴクと喉奥に押し込める。安い缶ビールだがやっぱり美味い。喉越しがいい。
缶の中身も半分を切った時、スマートフォンがメッセージの受信を通知した。
『今日はありがとう
夏海も「わかりやすい」ってとても喜んでた
また次もお願いね』
わざわざ報告してくるなんて、律儀だな。
しかし彼女からの連絡は、たとえそれが業務連絡だったとしても嬉しいものだ。アルコールのほろ酔い具合も合わさってかなり気分がいい。
俺はすぐに返事を返す。
『わかった
夏海ちゃんにちゃんと予習復習やっとけって言ってくれ』
この高揚感を噛みしめるように、ぐび、とビールを飲む。五臓六腑に染み渡る感じがたまらない。
彼女からの返信はすぐに返ってきた。無表情の熊がサムズアップしている可愛らしいスタンプだ。確かこのアプリに標準でインストールされているスタンプだったはずだ。俺はあまりスタンプを使わないので詳しくはないが。
『こんな可愛いスタンプ使うんだな』
『可愛いじゃない
あなたは使わないの?』
『あんまりだ』
そう、と返事が返ってくる。
ここでのやり取りは少しそっけないのに、使ってるスタンプは可愛い。一種のギャップ萌えというヤツではなかろうか。
その後他愛もないやり取りが続いて、会話が途切れた。
今日だけでも彼女のことをよく知れた気がする。少し天然が入っていて、下手だった料理が上手くなって、お菓子まで作れて、可愛いスタンプを使う魔性の女。
「俺、亜弥のこと何にも知らなかったんだな……」
たった1ヶ月で特別な関係になれたと思っていたあの頃の俺はもういない。むしろ特別ではなくなった今の方がより深く彼女のことを知ることができた気がする。
元からそうだったのか、時代がそう変化させたのかはわからない。けれどこれからも俺は新しく彼女について何か発見する度に喜びと同時に一種の寂しさを覚えるのだろう。
グビグビと缶に残っているビールを飲み干す。不思議と一口目よりもほろ苦く感じた。
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