第6話「ティータイム」

 亜弥は部屋に入ると、さっきまで俺が使っていたミニテーブルにお盆を置く。この後直行で帰るつもりだった俺だが、今の感情は緊張よりも混乱の方が勝っていた。


「紅茶でも大丈夫かしら」

「あ、ああ……」


 正直紅茶は苦手だ。しかし飲めないわけではない。それに、せっかく淹れてくれた亜弥に申し訳ない。


「夏海は牛乳でよかったわよね」

「うん」


 どうせなら牛乳の方がよかったな、と思いながら、俺はクッキーの皿を手に取る。多分俺の分のケーキがないからその代用なのだろう。


 テーブルを囲うように俺達は座る。8畳ほどの広さはあるが、ベッドや本棚、勉強机やクローゼットで部屋の半分近くは埋め尽くされているので意外と狭く感じる。


「お母さん、このケーキどうしたの?」

「佐伯くん……佐伯先生が買ってくださったのよ」


 へえ、と夏海ちゃんはパクリとケーキを口にする。口に入れた瞬間、目が輝いていた。


「美味しい! すごく美味しいよこれ!」

「そりゃよかった」


 そう喜ばれたら、俺もこのケーキを買った甲斐があったというものだ。

 俺はクッキーをかじりながら、ちびちびと紅茶を飲む。久しぶりに飲んだ紅茶は意外と美味しかった。


「クッキー、口に合わなかったかしら」

「いや、結構美味しい。紅茶とも合う」

「ならよかったわ」


 亜弥はそう微笑むと、ケーキを口にする。夏海ちゃんほど顔には出ていないが、好きなものを食べた時の喜びようは伝わってきた。


 それにしても、だ。


 お茶をするならわざわざこんな狭いところじゃなくても、リビングにすればよかったのではないか? この部屋だと、夏海ちゃんの私物などが多くてかえってリラックスできない。


「夏海の勉強の方はどう?」


 母親のその問いに、夏海ちゃんはギクリと固まってしまった。まるで石にされてしまったかのようにピクリとも動かない。


「まあ、文系科目は大丈夫だけど理系科目がな……当分は数学を中心に教えることになると思う」

「そう。それなら助かるわ」


 ね、と亜弥は夏海ちゃんの方を見る。彼女はカタコトの外国人のように「ソウデスネ」と虚ろ目で答えていた。


 まずは数学に対する苦手意識をどうにかすることだな。


 ここでつまづくとこの先でてくる文字式や関数などに大きく響いてくる。

 さらに図形など数式とは全く関係ないような分野でもグラフを応用させたような形で出題してくるパターンもあるため、今のうちになんとかしておきたい。


「夏海ちゃん、期末の範囲って、わかる?」


 彼女は首を振った。


 それもそうか。まだ中間テストが終わって1週間近くしか経っていない。

 しかし、俺は塾で長く仕事をしている人間だ。経験則に基づいたある程度の山勘は張ることができる。


「とりあえず今後の目標について考えたいんだけど、いい?」


 今度はコクリと頷く。そして様子を窺うように母親の方をチラリと一瞥した。

 亜弥は何も言わず、カチャリとテーブルの上に紅茶のティーカップを置く。これは多分「何も気にせず話してくれ」のサインだろう。


 俺は2人に向けて話を始める。こういう話は家族間で情報を共有していた方がいい。


「多分期末の範囲は文字式と方程式の一部が出ると思う。中間と比べたら範囲は広くなっているし、難しくなっているけれど、それでも俺は夏海ちゃんに最低でも60点は取ってほしい。そうなるように俺も頑張るし、夏海ちゃんも頑張ってほしい」


 数学においては他の科目以上に積み重ねの重要な教科だと考えている。

 たとえば、連立方程式は1次方程式が理解できていないと余計に難しいし、2次関数も1次関数を理解していないとまともに解くことすら危うい。

 だから、苦手の芽は今のうちに摘んでおかなければいけない。


「でも、できるかな……」

「大丈夫。基礎はちゃんとできているから、あとはやり方をしっかり覚えるだけ。一緒に頑張っていこう」

「うん、わかった」


 夏海ちゃんは少しだけ残っていた牛乳を飲み干す。ケーキはもう皿の上には残っていなかった。

 それは亜弥も同じようで、食べかすの欠片すら皿にはなかった。


「じゃあ、しばらくは数学だけを見るってことになるのかしら」


 さっきの話はちゃんと聞いていたようで、亜弥は口を開く。


「そうなるな。本人の希望があれば教科を変えることもできるし、もう1科目やってほしいって言うのなら、もう90分追加でやってもいい」


 え、と夏海ちゃんは完全に目を丸くしていた。まだやるのか、と言わんばかりに俺の方を見る。せっかくの休日を丸々勉強に費やされたくないのだろう。


「やめておこう。本人が望んでいない」

「なら、せめてテスト前くらいはコマ数を増やしてもらおうかしら」


 げえ、と今度はカエルをすり潰したような声が聞こえた。


「だって、それくらいしないとあなた成績伸びないじゃない」

「わかってるけどさあ。でもしんどいものはしんどい」

「あなた次のテストで目標の60点行かなかったら小遣いなしにするから」

「ちょっと、それは酷いんじゃない?」


 ぶうぶうと夏海ちゃんは亜弥に文句を垂れ流す。でも部活禁止にされるよりはよっぽどいい。


「小遣い禁止はともかく、今日から期末に向けて頑張っていきましょう」


 プチ喧嘩を仲裁するようにパチンと手を叩く。その音で冷静なったのか、2人は口論をやめ、空いた皿をお盆の上に戻した。


 どうやらティータイムも終わりだ。ごちそうさま、と告げて俺も空き皿とコップをお盆に乗せた。

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