第115話「先生」

「先生って、どんな感じ?」


 体育大会が終わってしばらく経ったある日、いつものように夏海ちゃんに家庭教師をしていると、彼女が不意にそんなことを尋ねてきた。

 もうすぐ職業体験で小学校に行くからだろうか。

 彼女は、少しソワソワした様子で俺を窺う。


「先生か……楽しいけど大変だぞ」

「らしいね。残業は多いし、けど給料は少ない」

「給料面に関しては一応公務員だから、それなりに貰えているんじゃないか? まあ仕事の割には合わないと思うけど」


 夏海ちゃんにそんなことを言ってどうするんだ。

 えっと、と何か別に切り口はないかと探したが、パッと思い浮かばない。

 もちろんやりがいはあるが、それ以上に激務と言う印象の方がどうしても強い。


「先生はさ、今は塾講師だけどさ、なんで教師になろうって思ったの?」

「なんで、か……」


 そう問われて、しばらく考えてしまった。

 教師を目指したのなんてもう随分と昔のことだ。

 薄れゆく過去の記憶を辿りながら、教師になろうとした俺のルーツを探す。


 ……あった、俺が教職を選んだきっかけ。


「子供の頃さ、友達に勉強を教えてたんだ。そしたら『教えるの上手いね』って言われて、それが嬉しかったんだ。多分、それが俺が教師になろうって思ったきっかけ」

「なんか、意外と深いね」

「意外とってなんだ」

「いや、てっきり公務員だからかと」

「だったら普通に役所で働いてるよ。まあ、給料が安定してるから選んだってところは否定しないけど」

「でも今は塾講師やってるんだ」


 ギクリ、と胸に鋭いナイフが刺さったような感じだ。

 なんで? と夏海ちゃんが曇りなき眼で見つめてくるため、これもちゃんと返しておかなければならないだろう。


「……まあ、教員採用試験に挑むのと同時に普通に就活してたんだよ。教師に鳴れるとも限らないから。で、結局試験は落ちて、塾の会社に受かって、今に至るって話」

「こっちは結構あっさりしてるね」

「悪かったな。ほら、ペンが止まってるぞ」


 はーい、と夏海ちゃんは再びペンを走らせる。

 2学期に入ってから、本格的に勉強の内容も難しくなった。

 特に数学は三角形の合同問題が主な範囲となっていて、計算ではなく論理的に組み立て、文章にしていく力が求められてるため、点数を取れる生徒と取れない生徒との差が大きく開いてしまう。


 夏海ちゃんはどうかと言うと、多分取れる方の人間だと思う。

 ただ、この手の問題はかなりアレンジがしやすく、出題者がかなり好むジャンルであることは間違いない。

 特に誠司さんのように少し捻くれた思考を持っている人間であれば、より複雑で難解な問題を出してくるだろう。

 すなわち、今回の学期試験はかなり平均点が下がると予想される。


 先日行われた2学期の中間試験も、学年の平均点は1学期と比べるとかなり下がっていたので、容易に想像ができる。


「うーん、やっぱり難しい」


 今彼女が解いているのは、単元の内容を少し応用した問題だ。

 普通の問題だとさすがにスラスラと解いてしまうので、少し捻ったものを出してみる。

 変化球の多い単元だが、実は変化球の仕方もワンパターンなものが多く、慣れればどうということはない、というケースが少なくない。


「落ち着いて、さっきやったのと同じ。ほら、同じ角の大きさのところを注目して」

「あ、なるほど」


 やっぱり夏海ちゃんは飲み込みが良い。

 ワンポイントアドバイスを送っただけで、すぐにどこを攻略すればいいのかがわかって、スラスラと解いてしまう。


「先生はさ、こうやって私が『わかった!』ってなると、嬉しいの?」

「そりゃもちろん。一番やりがいがあるし、生徒からの『わかる』があるとこっちも教えてよかったなって気持ちになる」

「そっか。じゃあ、これからも先生の授業ちゃんと聞かないとだね」

「よろしく頼むよ」


 ふふ、と微笑むと、俺は彼女の頭を撫でた。

 むにゃ、と夏海ちゃんは素っ頓狂な声を上げる。

 前回のテストの点数はそこまでいいものではなく、そのためご褒美だった「夏海ちゃんの頭を撫でる」という行為はお預け状態だったのだが、俺の方からそれを破ってしまった。

 特に特別な感情があるわけでもない。ただ、何となく撫でたいと思ってしまった。


 それでもやっぱり夏海ちゃんはご満悦のようで、にへら、と少し歪な口元を浮かべていた。


「やっぱり先生の手、お父さんみたい」


 彼女は俺の手を取ると、そっと自身の頬に俺の手をやった。

 亜弥同様に小さな顔だ。ひんやりと冷たくて、ぷにっとした白い肌が俺の手のひらに引っ付く。


「先生の手、あったかいね」

「そうかな」

「そうだよ。あ、手先があったかい人は心が冷たいんだって。へえ、先生って冷たい人なんだ」

「そうやってからかうのはやめろ。もう頭撫でてあげないよ」

「それはやだなあ。ちゃんとしまーす」


 軽く流しているようだったけど、ちゃんと俺の手を離してくれた。

 ひょっとしたら「もうハグをしない」という言葉は夏海ちゃんに言うことを聞かせるための魔法のフレーズになり得るかもしれない。

 今後も使える機会があったら使っていこう。


 なんて少し下衆なことを考えながら、俺は彼女の勉強を見た。

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