第116話「子供」

 仕事がひと段落終わり、ふう、と一息ついていたある日、スマートフォンが電話の着信を報せた。

 相手は亜弥だった。


「もしもし?」

「……先生?」


 亜弥ではなく夏海ちゃんだった。

 彼女からの電話もそう珍しいものではなかった。

 電話越しの夏海ちゃんの声が少し弱っているのも、慣れたものだ。


 夏海ちゃんが亜弥のスマートフォンを通じて電話をするのは、大抵何か相談事やぶちまけたいものがある時だ。

 そういう時は、何も言わずに彼女の話に傾聴することを心掛けている。


「それで、何か用?」

「うん。今日、初めて職業体験に行ってきたんだけど……」


 ああ、もうそんな時期か、と俺はカレンダーを確認した。

 今日は水曜日で、職業体験は明日、明後日と続く。


「何かあったの?」

「いや、何もなかった。けど、すごく疲れた。それだけ」

「それだけ? 本当に?」

「うん。あ、あと、子供たちに懐かれちゃったかも」


 にへ、と夏海ちゃんは小さく笑い声を出す。

 昼休みに子供たちから外で遊ぼうと誘われ、一緒にサッカーをして遊んだらしい。

 さすがにサッカーはバレーのように上手くできなかったみたいだけど、それでも子供たちと一緒に遊べて楽しかった、と夏海ちゃんは話した。


「おかげですごくクタクタでさあ。うーん、私サッカー向いてないのかも」

「そりゃ夏海ちゃんには経験がないから。現役のサッカー少年に負けるのは仕方ないよ」

「でも、ちょっと悔しい」


 電話越しでも、夏海ちゃんが口を尖らせている様子がありありと目に浮かぶ。

 こういう風に悔しがるのも、なんだか母親そっくりだ。


「それで、何か体験を通じて得られそうなものはあった?」

「どうだろう。よくわかんないけど、子供に懐かれるのって、なんか好きかも」

「へえ」


 何となくだけど意外な言葉だった。

 自分にも、そして他人にもあまり関心を持たないようなイメージを勝手に抱いていたのだが、ひょっとしたら子供が好きなのかもしれない。


「ちなみに、どこのクラスを担当するとか、あった?」

「えっとね、3年1組」


 3年生となると、なかなか生意気な生徒が目立つ年頃だ。

 うちの塾でもやっぱりそういうやんちゃな子が多い。


「大変でしょう」

「もう、全然言うこと聞かないんだ。ちゃんと授業に集中しようって注意しても全然聞く耳持たないし、大変大変」

「ははは、俺の塾もそうだよ。立ち回ったり隣にちょっかいかけたり、時々しんどくなる」


 塾講師になってから歴はそれなりにあるが、やっぱりいろんな人がいる。

 ちゃんと言うことを聞いてくれる生徒ももちろん存在するが、話を聞かなかったり授業中に寝てしまったり、何しにここに来たんだ、と言いたくなるような生徒も珍しくない。

 塾という狭いコミュニティの中でこれなのだから、おそらく学校レベルのコミュニティだともっといろんな生徒がいることだろう。


「でも、そういう子たちが『テストでめっちゃいい点取った』って報告する時、すごく目をキラキラさせて来るんだ。それを見ると、俺も教えてよかったなって思えてくる」

「先生にとってはそれがやりがい?」

「まあそうだね」


 ふうん、と夏海ちゃんは相槌を打つ。

 多分この感覚は実際に教師になってみないとわからないだろう。


 その後も夏海ちゃんは今日一日の体験談を話してくれた。

 楽しかったこと、辛かったこと、一つ一つの思い出を細かく話してくれる。

 意外と周囲を見ているんだな、と少しだけ関心した。


「ところでさ、先生、どうして私の連絡先交換してくれないの?」

「え?」

「いつも私が電話する時、お母さんのスマホ使ってるんだよ。私も持ってるのに、ちょっと面倒臭い」

「いや、それはだな……」


 塾での決まり事として、生徒と連絡先を交換してはいけない、という文言がある。

 生徒を何か事件に巻き込んだり、逆に先生側が巻き込まれたりしないように、と言う理由で制定されたものだ。

 この家庭教師もボランティアとして塾とは全く関係なくやっているのだが、そういう決まりがあるため夏海ちゃんと連絡先を交換するのは少し気が引けてしまう。


「先生の連絡先教えて。この先も先生に電話することあるかもしれないし」

「……わかった」


 夏海ちゃんなら、多分大丈夫だろう。不安はまだ拭えないけれど。


 ちょっと待ってて、と夏海ちゃんはどこかへ去っていき、すぐに戻ってきた。

 そしてポチポチと何かをタップしたりフリックしたりする音が聞こえたと思ったら、ピコンと亜弥のトーク画面に猫のアイコンとNATSUMIと表示されたユーザーネームが送られてきた。


「これ、私のアカウント」

「う、うん……」


 彼女のアカウントだということはすぐにわかったのだけれど、アイコンに写り込んで猫は一体なんだろう。

 亜弥たちが住んでいる部屋に猫なんていなかったし、以前に何かペットを飼っていたという痕跡も見つかっていない。


「この猫、何?」

「友達が飼ってるんだ。可愛くてつい撮っちゃった」


 確かに、キラキラと大きな瞳をこっちに向ける子猫の写真は、見ているだけで癒されてしまう。

 もし実物を目にしてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。


「猫、好き?」

「うん。お父さんは犬派だったけど、先生は?」

「うーん、どちらかというと猫かなあ」

「そこはお父さんと違うんだね」


 まあね、と返したけれど、元々俺は犬派だった。

 だけど亜弥が猫派だったから、俺もそちらに鞍替えしたという感じだ。

 亜弥が猫好きだったということはつい最近知ったのだけど。


「じゃあ、今度先生に連絡する時はこれからかけるよ」


 よろしく、と夏海ちゃんのアカウントから同時にメッセージが送られてきた。

 俺もそのメッセージにスタンプで返すと、彼女も可愛らしいスタンプを連続して送ってきた。

 いろいろと大人びている夏海ちゃんだけど、やっぱりこういうところはまだ子供だなあ、とつい思ってしまう。

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