第117話「10年、20年、その先へ」

 翌日も、その翌日も、夏海ちゃんから電話がかかってきた。

 今日はこんなことがあった、誰それがこんなことをした、細かいところまで報告してくる。


 しかし、夏海ちゃんの口から愚痴は一切出てこない。

 自分の辛かった話は時々出てくるが、それを誰かのせいにしようということはせずに、ただただ事実だけを伝えてくる。

 彼女の人の好さが垣間見える場面だ。


「よくそんなたくさんのことを鮮明に覚えてられるね」

『先生のおかげだよ』

「俺? 何かしたかな」

『先生と一緒にいると、すごく楽しいんだ。だから、灰色だった毎日もだんだん色づき始めていって、いろいろ感じたり、触れたりするのが楽しくなってきたんだ』


 そっか、と俺は返す。

 出会った頃の夏海ちゃんは、自分にも他人にも関心が薄く、昨日の出来事もすっかり記憶から抜け落ちているようだった。

 これも、一つの成長なのかもしれない。


「それで、自分の将来は見つかった?」

「それで見つかるんなら苦労はしないよ」

「そりゃそうだ」


 相変わらず自分自身の未来についたはまだ何も見えていないようだ。

 今はそれでいいかもしれない。けど、いずれ彼女自身で答えを見つけなければならない。


「でも、なんとなく教師もいいかなって思えてきた」

「お、嬉しいこと言ってくれるね」

「でもわかんないよ? 大学卒業直前で変えちゃうかも」


 クスリと電話越しに夏海ちゃんが笑う。

 大学卒業なんて、あと10年も先の話だ。

 来年のことを言うと鬼が笑うとあるが、これが10年も続けば大笑いを通り越して抱腹絶倒だろう。


「10年先、俺達はどんな風になってるんだろうな」


 夏海ちゃんが大学を卒業する年は、俺と亜弥は大体40代半ばになっている。

 もう今の時点で身体が思うように動かないのに、ますます制御が出来なくなるかもしれないと考えると少し恐ろしい。

 それはさておき、俺と亜弥の関係は10年先も、そして20年先も、はたまたずっとその先も、隣にいれたらいいなと思う。

 もちろん、夏海ちゃんも一緒だ。


「その話はお母さんとすれば? 呼んでこようか?」

「いや、いい」

「そっか。じゃ、私お風呂に入ってくるから」


 プツンと通話はそこで途切れた。

 なんだか電話での夏海ちゃんは、いつも直接会うときのクールで無口な感じではなく、少し子供っぽくて口数が普段よりも多い印象がある。

 電話越しだと少しキャラが変わる人がいるらしいが、夏海ちゃんはその分類に入るのだろう。


 さて、仕事もキリのいいところまで片付いたし、そろそろ帰ろうか、と帰宅準備に取りかかろうとすると、再びスマートフォンが着信を報せた。

 また夏海ちゃんだろうか、と表示を確認したが、夏海ちゃんではなかった。


「もしもし?」

『もしもし。あなた、随分夏海と仲良くなったみたいね』


 亜弥の穏やかな声がスマートフォン越しに聞こえてくる。

 何と言うタイミングだろう。まさか夏海ちゃんが図ったのだろうか。


「それで、何か用?」

『用、と言うほどでもないんだけど、あなたと夏海のやりとりをちょっと聞いてしまって……』

「……何かまずいことでもしてしまったでしょうか」


 ひんやりとした汗が背中を伝う。

 別にやましいことなどしていない。しかし、それでも中学生との会話の内容をその親に聞かれた、となると途端に罪悪感に苛まれてしまう。

 それがたとえ同級生の、そして恋人の娘であったとしてもだ。


 しかしそんな俺の不安を拭い去るように、ふふふ、と亜弥は笑った。


『違うのよ、その、夏海がいつもあなたに楽しそうに話すものだから、ちょっと羨ましくなっちゃって』

「ああ、なるほど……」


 児童ポルノ案件でなくて本当に良かった、とほっと胸を撫で下ろした。

 親密な仲になったとはいえ、あくまでも家庭教師と生徒の関係だ。そういうことはきっちりしておきたい。


『それで、その、夏海との会話を聞いていたんだけれど……』


 今度は急に亜弥の言葉が詰まりだした。


『私たち、10年先はどうなってるんでしょうね』


 彼女の言葉を聞いて、急に体温が上昇する。

 そうか、さっきの会話を聞かれていたということは、この話題も亜弥の耳に届いていたということだ。

 いつから聞かれていたかにもよるけれど、もし亜弥に聞かれている状態であんなことを言ってしまったとしたら、相当恥ずかしい。

 もしや夏海ちゃんはそれを分かった上で離席したのではないだろうか。

 だとしたらなかなかの策士だ。


「正直、想像ついてたりついてなかったりだよ。身体は衰えて、仕事も変わらずに続けてて、今とそこまで変わってないかも」

『そうね、そうかもしれないわ』

「でも、亜弥が好きだっていう気持ちは、今よりきっと強くなってる」


 自分でもらしくないことを言ったと思ってる。

 こんなキザな台詞、口にしただけでむず痒い。

 けれど、考えるより先に口が勝手に動いてしまうのだから仕方がない。


 電話の向こう側はしばらく無音だった。

 やっぱり引かれただろうか、とまたしても体温は下がり、急激に冷汗がだらりと背中を伝っていく。


『……私も、今以上にあなたのことを好きになっていたい』


 か細い声だったけれど、確かに聞こえた。

 その答えを聞いて、天にまで上りそうな気分になる。


「そう、だな。うん。そうかもしれない」

『そうね、そうよ、きっとそう』


 恥ずかしさを誤魔化すように、同じ言葉を何度も繰り返した。

 だけど、やっぱりこの幸せオーラを留めておくことは難しい。

 顔のにやけが止まらず、同時に思い返しては悶絶して、を繰り返す。


『そ、それだけだから! じゃあ!』


 勢いよく電話が切れた。

 誰もいない塾の教室で、孤独に俺はその場でしゃがみこんでしまった。

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