第68話「君が好き」

 亜弥との始まりは、今振り返れば最悪なものだったかもしれない。


 彼女は俺のことを好きでもなんでもなくて、ただの罰ゲームで俺と付き合うことになって。

 それでも俺は彼女のことが忘れられなくて、大人になってもずっと彼女のことを覚えていて。

 再会して、薄れていた想いはまた強くなって。


 傍から見たらバカと言われるかもしれない。

 だけど始まりは偽物だったとしても、俺の気持ちはいつだって本物だ。

 誰に言われたって、この気持ちを曲げるつもりはない。


 亜弥は黙って、じっと俺を見つめていた。

 おそらく、これから俺が何を言うかを察しているのだろう。


「前からずっと言おうって思ってたんだけど、なかなかいいタイミングがなくて」


 ふう、とひとつ深呼吸を入れた。

 今までにないくらい頭が冴え渡っている。こんな感覚は初めてだ。

 彼女と再会して、また会いたいって言うのは人生で一番緊張したけれど、今は不思議とそんなことはないし、むしろいつも以上にリラックスできている。

 それは、俺が覚悟を決めたから、ちゃんと腹を括ったからだろうか。


 1歩、2歩、前に歩み寄り、亜弥の手を握った。

 小さくてすべすべとした可愛い手だ。


「俺さ、始まりは最悪だったけど、今振り返ったらいい思い出だったと思う」

「何、どうしたの急に」


 照れくさそうに亜弥は笑った。

 いつもならその表情を隠すために顔を覆ったりするのだけれど、俺が手を塞いでいるためそれができない。

 彼女の真っ赤な顔を特等席で見ることができる。


「昔の君はさ、棘があって、他人と距離を取ってて、でも甘いものが好きで、可愛いものに目がなくて、料理が全然ダメで。大人になったら今度は笑顔がとても似合っていて、ちょっと天然で、料理が上手になってって」

「もう、何が言いたいの」


 好きなところを羅列していったのだが、あまりにも恥ずかしいようでプリプリと嬉しさと恥ずかしさを混ぜ合わせたような声を出す。

 これ以上引っ張っても仕方がない。

 俺は亜弥の目を真っ直ぐ見つめ、優しく微笑んだ。


「つまり、君と一緒にいると、どんどん好きが溢れてくるんだ。君を見る度にいろんな好きなところが新しく出来ちゃう。昔のツンケンしてた君も、今の柔らかくなった君も。だから──」




 そういう全部含めて、君が好きです。




 本当はもっとロマンチックな言葉を選んだ方がよかったのかもしれない。

 緊張感がないせいか、かなり淡々とした告白になってしまったと思う。


 けれど、俺のこの言葉に嘘はない。


 そして、亜弥はボフッと顔を耳まで真っ赤にして、目を逸らした。

 俺も今更心臓の鼓動が早くなり、途端に顔が火照ってくる。

 今までの冷静な自分はどうしてしまったんだと言いたくなるくらいには慌てていて、パッと握っていた彼女の手を離してしまった。


「あ、いや、その、前にやった告白は、酔った勢いだったって言うのもあるし、ちゃんとした形で言葉にしたいなって思ってて」


 すると亜弥は俺の胸にいきなり抱きついてきた。

 ぎゅーっと、力強く、俺の後ろに腕を通す。


「嬉しい。すごく嬉しい。大事な話があるって聞いて、何となく察しはついていたけれど、やっぱり嬉しい。ありがとう、本当に、ありがとう……」


 腕の中で、彼女は泣いていた。

 最初は震えた声だったのに、徐々にズビ、と鼻をすする音が聞こえ、次第には言葉すら出なくなってしまった。

 ポン、ポン、と優しく彼女の頭を撫で、俺も優しく亜弥を包んだ。


 亜弥はとても小さくて、細くて、それでいてとても温かくて、心が満たされるのを実感する。


「私も、あなたのことが好き」


 そう笑う彼女の目は潤んでいて、雫がボロボロとこぼれ落ちたままだった。


「最初、あなたと再会した時、天罰だなって思ったの。だって私は、あなたを裏切って、嫌われるようなことをして」

「そんなこともう全然思ってないよ。だって、それ以上に君が好きなんだから」

「おかしな人ね、お人好しで優しくて……」

「それが俺の強みだからね」


 あはは、と照れくささを誤魔化すために笑った。つられて、彼女もクスクスと微笑を浮かべる。


「本当に私でいいの? 私、既婚者で、未亡人だけど」

「もちろん。でも忘れないでほしいけど、ちゃんと旦那さんのこと、覚えていてあげて。それだけは約束。でもそれ以上に、もっと君を夢中にさせてあげる」


 言うんじゃなかった、とすぐ後悔した。旦那さんの方ではない、夢中にさせるところだ。

 顔が真っ赤に燃え上がり、心臓が今までに例を見ないくらいバクバクと激しく脈を打ち、冷や汗がダラダラと流れ出る。

 穴があったら入りたい。


「いや、これは、カッコいい言葉を決めようとか、そんなんじゃなくてですね、旦那さんの想いでも大事にしてほしいというか、でもそれ以上に俺を見てほしいというかですね、その──」


 あたふたしている俺を見て、亜弥はフフッと笑った。

 次の瞬間、俺の唇に柔らかいものがふにっと触れる。

 その時間は刹那のようで、永遠のようにも感じた。


「わかってるわよ、それくらい」


 いたずらっ子のように口角を挙げる亜弥を見て、またしてもドキリと胸を射抜かれてしまった。


「俊の遺言だもの。いい人見つけて忘れてくれって。でも忘れるつもりなんてないわよ。俊との思い出だって、かけがえのない大切なものなんだから。それに、あなたはこれからの思い出、一緒にいてくれるんでしょう?」

「もちろん。全部含めて君が好きなんだ。君の過去も、今も、未来も全部」

「ならもう他に言うことはないわ」


 亜弥はもう一度俺の頬に手を添える。


「これからもよろしくね、洋介」


 今度はさっきよりも長い時間、彼女と口づけを交わした。

 今日ほど幸せな一日はこれから先訪れることはないだろう。

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