第23話「水野先生との食事」

 やってきたのはショッピングモールから少し歩いたところにある焼鳥屋だった。この店に来るのは初めてだ。

 こじんまりとした佇まいで、さすがに時間が早すぎるのか、店内には従業員と俺達以外誰もいない。


「よく来るんですか?」

「ええ。仕事帰りに」


 お座敷に通され、座布団に腰掛ける。水野先生はいきなり生ビールを注文していた。


「飲まないんですか?」

「お酒はあまり強くなくて」


 せいぜい缶ビール1本が限度だ。だからジョッキなど飲もうと思えない。


「で、話って何です?」


 お冷を飲みながら俺は彼女に尋ねる。


「塾長って、今好きな人とかいるんですか?」

「ぶっ」


 唐突な変化球に思わず口に含んでいた水を吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。こんな質問をするの、夏海ちゃんくらいだと思っていたのに。


「その反応するってことは、いるんですね」


 水野先生は両肘をテーブルにつき、口元を手で覆った。きっと手をどかせば口角が緩んでいるのがわかるに違いない。


 そのタイミングでお座敷のふすまが開き、彼女が注文したビールジョッキが届いた。ご注文はお決まりでしょうか、とジョッキを運んだ店員が尋ねる。


「ももの塩とタレ、とりあえず2本ずつ」

「かしこまりました」


 いいですよね、と水野先生が尋ねてくる。俺は動揺を隠せないまま、コクリと頷くことしかできなかった。


 ピシャリ、とふすまが閉まると、水野先生は再び俺の方を見る。


「で、どんな方なんです?」

「どんな方、って言われても……」


 ポリポリと俺は頭を掻く。多分過去一番に恥ずかしい出来事だ。顔から火が出そうなくらい、頬は真っ赤に染まっていると思う。


「そもそも、まだ言ってないじゃないですか。好きな人がいる、なんて」

「でもその反応はいますよね?」


 いない、なんて言えなかった。だって言ってしまったら、亜弥への想いを自ら否定することになるのだから。


 だから俺は俯いて無言を貫くしかできなかった。


「別にその人を処刑しよう、なんて言ってるんじゃないんです。純粋に興味があってですね……そう! 恋バナです恋バナ」

「はあ……」


 グビッと水野先生はジョッキのビールを飲む。豪快な飲みっぷりだ。


 恋バナなんて縁のない話だと思っていた。学生時代はそんな話をする友人なんていなかったし、そもそもあまり恋をすることがなかった。本気で恋をしていたと言えるのは……やっぱりどうあがいても亜弥だけになってしまうのか。

 でもまさか30後半になってこんな話を職場の人間とするなんて思いもしなかった。夏海ちゃんなら喜んで食いついてくるだろうか。


「そうですね……まあ、いないこともないです」


 途端にこの場の空気が一気に5℃くらい暑くなったような気がした。

 俺は呼び鈴を押し、ハイボールを注文する。こんなもん、酔わずにやってられるか。


 届いたハイボールを飲むと、一気に酔いが回ってくる。少しだけ気分がいい。アルコール様様だ。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫ではないですよ」


 少しクラクラするが、まあこのくらいなら問題ない。アルコールの酔いは、この恥ずかしさをかき消すには丁度良かった。


 同じタイミングで注文されてきた焼き鳥が届く。出来立てだからかなり美味しく感じた。


「塾長、好きな人がいるんですね」

「そうですね……照れるからこの話題はやめませんか?」

「いえ。興味があるので」


 真っ直ぐな目で見つめてくる彼女から、逃がさないという圧力がものすごく伝わってくる。少しだけ酔いが醒めた。


「その人、どんな方なんですか?」

「一言で言えば、中学時代の同級生です。初恋でした」


 ハイボールを飲みながら俺は答えた。


「片思いなんですか?」

「昔付き合っていたんですけど、別れてしまいまして。しばらくは連絡も取っていなかったんですけど、最近再会しまして。それでまた恋心が芽生えた感じですね」

「なんだかロマンチックですね」


 水野先生はそう笑うけれど、実際はそんなロマンチックなものではない。どうしてここまで関係が修復できたかわからないくらい、俺達の歪みは大きなものだったと思う。


「なんだか羨ましいです」


 フフッと彼女は笑うと、その微笑みに似つかないくらいの豪快な飲みっぷりであっという間にジョッキの中のビールは空になった。

 すかさず水野先生は店員を呼び出し、ビールの追加を注文する。追加でいろんな焼き鳥も頼んでいた。


「よく飲みますね」

「お酒好きなんですよ。兄は全くダメなんですけどね」

「お兄さんがいるんですね」

「ええ。中学校の教師をしているそうで」

「へえ」


 なんでも担当は数学らしい。しかし普段は問題ないのに勉学のことになると途端に性格がひん曲がってしまうらしく、よく難問を作って生徒に苦労させているらしい。

 どこかで似たようなケースを見たことがあるような気がするのだが。


「ちなみに、どこの中学ですか?」

「えっとですね……」


 水野先生が話してくれた学校名は、夏海ちゃんが通っている中学校の名前だった。

 塾の生徒にも何名家その学校に通う子がいたが、やっぱり皆口を揃えて「数学が難しかった」と言っていた。


「ああ……」

「兄の作る数学の問題、後半にかけて極端に難しくなりますから。今は1年生を担当しているそうですが、3年生になるとどうなるんでしょうね」


 うふふ、と新しいビールジョッキをグビッと飲む。この人の飲みっぷりは本当に恐ろしい。


 店を訪れて30分が経過した。ガヤガヤと他の席が騒がしくなってきた。その空気に当てられ、俺達のトーク、もとい恋バナもも弾んでいき、徐々にヒートアップしていく。


「水野先生の方こそ、恋人作らないんですか?」

「今はいいですね。仕事の方に集中したくて」

「こんなに恋バナしてるのに?」

「それとこれとは別です!」


 ぶう、と頬を膨らませながら、水野先生はバクバクと料理を食べる。飲みっぷりだけでなく食いっぷりも豪快だ。


「塾長こそ、もういい歳じゃないですか。そろそろ結婚とか考えているんですか?」

「今はまだ……でもいずれはしてみたいものですね」

「その初恋の人と?」

「願わくばそうなりたいんですけど、今は厳しそうですね……」


 ふうん、と水野先生は俺の方を見る。


「それはなぜ?」

「なぜ、と言われましても……」


 相手が未亡人だからだ、なんて言えるはずもなかった。

 仮に亜弥からOKを貰えたとしても、夏海ちゃんがどう思うかわからない。


「それは秘密です」

「いいじゃないですか。教えてくれたって」

「本当に教えたくないことだってあるんですよ」


 あしらうようにそう言うと、俺はグラスに残っていたハイボールを飲み干した。

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