第17話「もうすぐ夏休み」
長期休暇というのは、我々塾講師にとって勝負の時でもある。
夏は夏期講習、冬は冬期講習と称して無料体験キャンペーンを実施している。
もちろん入会のための無料体験は年中やっているが、学校が開いていなくて学習習慣が疎かになりがちな今、せめて無料体験だけでも、と足を通わせる親は多い。
だから今が新規生徒を参入させる大きなチャンスなのだ。
とは言っても、そこまで大それたことはしない。
せいぜい学校にお願いして無料体験のチラシを配るくらいだ。
しかしそれだけでも効果はあるもので、平時よりも多くの親子がこの塾に足を運んでくれる。
「今日は1人、か」
塾での授業も終わり、新規に入塾する生徒の名簿を眺めながら一息つく。
控室では大学生の講師アルバイトたちがいろいろ談義していた。若い者たちは元気があり余っていて羨ましい。
「お疲れ様です」
控室から水野先生が声をかける。リュックサックを背負い、既に帰る準備は整っていた。
「水野先生、ちょっとよろしいですか?」
「はい、なんでしょう」
俺は彼女を呼び止めた。
「明日、4限入ってもらうことって可能でしょうか? 今日入塾した生徒の授業をみてほしくて」
「はい、可能ですが」
「わかりました。シフトを組んでおきますのでよろしくお願いします。お疲れさまでした」
ペコリと水野先生は頭を下げ、塾を出る。それに続いて、他の先生方も次々に帰っていった。
「あの」
一人、俺を呼び止める。大学生アルバイトの
「なんでしょう、鈴井先生」
「来月からのシフト、減らしてもらうことは可能でしょうか」
「よろしいですけど、何かありました?」
「叔母の手伝いが忙しくなるそうなので、8月は入れそうにないんです」
2年前からうちで働いている彼だが、叔母が海の家を経営しているらしく、繁忙期になる8月は人手不足のために手伝いに行くそうだ。
「わかりました。来月分はそういう風にシフトを調整しておきますので、向こうでもきっちり頑張ってください」
「ありがとうございます」
彼も頭を下げ、塾を出る。
シフト調整というのは面倒なものだ。
うちでは基本的に生徒と講師を固定にしているが、生徒側から講師に対しての苦情があったり、講師側の都合がつかなくなった場合、こうやってシフトを調整して上手くやりくりしている。
どうしても都合がつかなくなった場合は俺が受け持つことも少なくない。
ふう、と俺はPC内のシフト表をカチカチといじくる。作業が終わる頃にはもう23時前だった。
夜になると暑さは少し落ち着いたが、すぐに汗が噴き出てしまうくらい
いつものように戸締りをし、帰路につく。
若い頃はこの時間になるといつも空腹で仕方がなかったが、年を重ねるにつれ食欲が衰え、ある程度の空腹には耐えられるようになった。
とはいえ、腹が減っていることには変わりはない。
俺はいつものコンビニに立ち寄り、おにぎりを2つ、あとは焼き鳥が売っていたのでももしおを1本注文する。
最近はこれくらいで丁度いい。
レジ袋を持って家に向かう途中にスマートフォンがメッセージの通知を報せた。
亜弥からだった。
『お疲れ様
来週の夏海の試合、10時から市民体育館だから
ちゃんと見に行ってあげてね
あの子、とっても楽しみにしていたから』
亜弥からのメッセージの内容に、思わず顔が綻ぶ。
了解、と俺は文字を打ち、歩みを再開した。
先日の忠告が見事に効いた俺は、その次の家庭教師の日に試合を見に行くことを伝えた。
「そっか。じゃあ頑張らなきゃだね。勉強もバレーも」
彼女は俄然やる気に燃えたようで、その後の授業も今まで以上に集中して取り組んでいた。
しかしわからないことがある。
なぜ夏海ちゃんは俺を誘ったのだろうか?
お世話になっているから、という理由で俺を誘ってくれたけれど、正直その理由がどうバレーと繋がるかがいまひとつわからない。
自分のプレーを見せることが家庭教師への恩返しだと考えているのだろうか?
相変わらず何を考えているかが掴みづらい、少し不思議な子だ。
とにかく、答えの出ない問題に立ち向かっても体力が削られるだけなので、これ以上は考えないことにする。多分夏海ちゃんのことだ。深い意味はない。
バレーボールのルールでも勉強しておいた方がいいだろうか、なんて考えていたら自宅にまで戻ってきてしまった。
部屋の明かりをつけ、スマートフォンの動画再生アプリを開く。とりあえずバレーボール、と検索し、一番上にヒットした男子日本代表の動画を見ながら晩飯にありついた。
ルールはなんとなくわかるがポジションの名前までは知らない。
動画を3分の1で切り止め、今度はバレーボールの解説動画を調べた。
調べた内容を簡単にまとめるとこんな感じだ。
前衛のフォワードと後衛のバックにそれぞれ3人ずつ分かれ、サーブ権が移行する度に6人全員が時計回りにローテーションする。これが一番の基礎。
また、プレイヤー一人一人に役割が与えられているようで、点を稼ぐウィングスパイカー、攻撃に特化したオポジット、防御の要であるミドルブロッカー、スパイカーに打ちやすい球を与えるセッター、一人だけユニフォームが違うレシーブ専門のリベロ、といった具合で5つのポジションがある。
なるほど、なんとなくわかったような、わからないような。
そういえば夏海ちゃんはどこのポジションなんだろう。
背は高くなく、低くもないからミドルブロッカーというイメージはないし、かといって他のポジションもなんとなく想像がつかない。
知らなくても当日知ればいいか。
途中で打ち切った日本代表の試合をもう一度見ると、試合がほんの少しだけ面白く見えた。
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