第63話「本心」

 やはり年度最後のテストと言うこともあり、いつも以上に塾の雰囲気はピりついていた。

 とはいえバレンタイン当日となるとやはり浮ついた空気が漂っているものだ。

 何個渡した、何個貰った、なんて会話が休憩時間にチラホラと飛び交う。


 それは生徒だけではなく、講師の先生も同じだった。

 特に男性陣はやはりと言うか、水野先生からのチョコレートを狙っているようだ。


 が、彼女はそんな男性陣の期待をことごとく破壊する。


「これ、よかったらどうぞ」


 そう言って水野先生はお徳用の小さなチョコレートの詰め合わせの袋を開け、男性女性問わず渡していく。

 なるほど、これなら今日来ていない先生方にも平等に渡すことができるし、自分が料理下手だということも隠せる。


 この特別な感情なんて微塵もない渡し方に落胆する者もいれば、それでも喜んでいる者もいた。


 鈴井先生は紛れもなく後者だ。掌の上の義理チョコをキラキラと眺める。

 なるほど、あれは水野先生に惚れているな。俺が亜弥に対する反応もあんな感じなのだろうか。


「バレンタインもいいですが、ちゃんと業務に集中してください」


 パチンと手を叩き、彼らに促した。その中で、水野先生だけは俺の方を見てキラリとウインクをする。

 今のは一体どういう意味だろうか。しかし今はそんなことを考えている暇はないので、とっとと業務に戻ることにする。


 その後、塾の営業は滞りなく進み、生徒たちが帰っていく。

 水野先生のチョコレートは小さな箱に移され、丁寧に「ご自由にどうぞ」と書かれた付箋まで貼られていた。

 それを多くの生徒たちは水野先生に「ありがとう」と言いながら取っていく。


「塾長も1つどうですか」


 誰もいなくなった教室で、水野先生が話しかけてきた。


「では、お言葉に甘えて」


 そういえば以前、チョコレートがどうこう、というのを彼女から聞かれた。

 あれは大丈夫だったのだろうか。それとも手作りに挑戦して失敗したからこれを渡そうとしたのか。

 いや、デートの時にこんな味気ないものを渡す人はいないだろう。 だとするとそもそも渡す予定なんてなかったのか。


 なんていろいろ思慮していたら、水野先生はハート形の箱を見せてきた。


「これ、前のデートの時に渡そうと思ってたんですけど、渡しそびれちゃって」


 水野先生は頬を少し紅潮させながら笑ってきた。

 あのデートには苦い思いでしかないはずなのに、こんな風に笑顔を見せられるのは本当に肝が据わっているとしか言いようがない。


「本当は、自分で作ったものをあげたかったんですけど、上手にできなくて……手作りの方がよかったですか?」

「いえ、嬉しいですよ。ありがとうございます」


 これは、今食べた方がいいのだろうか。

 するするとリボンをほどき、箱を開ける。中にはやっぱりハートタガのチョコレートが入っていた。

 考えていることは、亜弥も水野先生も同じらしい。


「美味しいです。苦さと甘さが丁度良くて」

「そうですか、よかったです。まあ、作ったのは私じゃないんですけどね」


 えへへ、と彼女は照れくさそうに笑う。いつも通りの水野先生だ。


 やはりお店のものと言うこともあり、亜弥の手作りチョコレートと甲乙つけがたい仕上がりとなっていた。が、食感の良さで勝敗を分けるならこちらの方が勝っているだろう。

 あっという間にチョコレートを食べてしまった。


「亜弥さんからはチョコレート、貰いました?」

「はい。手作りでした」

「やっぱりそうですか。料理ができるって羨ましいなあ」

「でも亜弥は昔、全然できなかったから、きっと水野先生でもできますよ」

「だといいんですけど」


 そう笑う水野先生だったが、ふと、その目が少しだけ悲し気に遠くの方を見た。


「私、3月いっぱいで辞めようと思うんです」

「……やっぱり、辞めるんですね」

「はい」


 あの告白の後、少し時間が経てば辞めることを辞めてくれるかと思ったのだが、そんなことはなかった。

 むしろ、その憂いと決意に満ちた表情に、俺も何も言うことはできなかった。


「せめて、あの子たちがちゃんと進級するまでは見届けてあげたいなって思って」

「そうですか。残念です」


 正直今の講師陣の中で、水野先生ほどひたむきに生徒と向き合い、生徒から慕われる先生はいない。

 だからこそ、彼女が教員になることを応援せずにはいられないのだけれど、それでもいなくなってしまうのは寂しいし、ここの塾にとっても痛手になる。


「実を言うと、親にはまだ何も話していないので、正直何を言われるか分かんないんですよ。多分怒られるとは思いますけど」

「大丈夫ですよ。水野先生は芯の強い人ですから、自分の想いを、貫き通せばいいんです」

「そう褒められると、すごく照れますね……」


 赤くなった頬を隠すように、彼女は頬を手で覆う。

 しかし口元のほころびを隠すことはできなかった。


「もう遅いです。早く帰ってゆっくり休んでください」

「はい。そうさせていただきます」


 水野先生は鞄を持ち、扉の前まで向かった。

 そして、俺の方へクルリと振り返る。


「残り短いですけど、これからもよろしくお願いしますね」


 ペコリ、と水野先生は微笑んで、頭を下げた。


 去り行く彼女の背中を俺は眺める。

 一体あの言葉に、どんな感情が込められていたんだろう。

 きっと、もっと大きくて複雑なものが、あの表情にある。


 ただ、水野先生にも幸せになってほしいと思うのはエゴだろうか。

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